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<title>よのなか。</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/</link>
<description>『小論文頻出テーマとキーワード』の著者が、世の中のことについていろいろ調べて
考えて書いています。それが、結果として小論文の何かお役に立てれば幸いです。</description>

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<title>ワールドカップと蒙古襲来</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15602.html</link>
<description><![CDATA[ワールドカップは、まさに〈国〉の威信を賭けた戦いです。<br />すでに名誉も地位も財産も手に入れたはずのスター選手たちが、<br />目の色を変えて必死にボールを追い、時に泥臭いプレーまで見せるのは、<br />その背中に背負ったものの大きさゆえでしょう。<br />そして、勝利に歓喜し敗北に落胆するのは、<br />どの国の国民も変わりありません。 <br /><br />しかし、日本における声高な〈国〉の叫び方には、違和感を覚えます。<br />例えば、日本代表の試合ごとに渋谷にくり出した若者たち。<br />明らかに〈国〉を肴に日頃のやるせない感情を放出しているだけです。<br />あるいは、試合前に行われる「君が代」の独唱。<br />国どうしの戦いですから、国家を唱うことは当然です。<br />ですが、なにゆえに有名な歌手が来て唱わなければならないのでしょう。<br />(なお、プロ野球のパリーグでは、試合前に国歌斉唱と国旗掲揚を行います。<br />僕はたかだがスポーツの興行に〈国〉を持ち出すのはいかがなものかと思い、<br />起立したことが一度もありません）<br /><br />日本人がどのような国家観を持ってきたのか？<br />とても参考になるのが、<br />中世日本の対外関係史を専門とする村井章介さん(東京大学教授)が著わした<br />『北条時宗と蒙古襲来』(ＮＨＫブックス)です。<br />蒙古襲来と言えば、鎌倉時代の日本を襲った〈国家存亡の危機〉で、<br />当時の御家人たちは〈国の命運〉を賭けて必死に戦った。<br />そういうイメージがあるかもしれません。<br />しかし、実際はどうだったのでしょう。<br /><br />教科書にも載っている『蒙古襲来絵巻』を知りませんか？<br />九州の御家人・竹崎季長が子孫に武功を伝えるために描かせた絵巻物で、<br />モンゴル軍の弓矢や火薬兵器(てつはう)を用いた攻撃に、<br />季長の騎乗する馬がヒヒーンといななく場面は有名です。<br />(僕はこの絵を見るたびに、「どこで見てたんかい」と思ってしまいます)<br />さて、季長はどういう意識で戦っていたのでしょう。<br />先を急ごうとする季長に対して、<br />家来たちは「味方がくるまで待ったらいかがですか」と忠告するのですが、<br />季長はまったく耳を貸さず、<br />「先駆けこそが武家のならいだ。他の武士に絶対に遅れをとるな」と<br />どんどん前を行ってしまうという場面があります。<br />このとき季長の心にあったのは、ただ一つ〈恩賞〉だけです。<br />実はそのころ、竹崎一族は貧窮のどん底に苦しんでいました。<br />だから、何とかここで手柄を立てて、恩賞を頂戴したい。<br />そんな気持ちが「集団の規律」を無視したスタンド・プレイに<br />季長を走らせていたのです。<br />(ちなみに、「やあやあ我こそは」と名乗りを挙げて戦う一騎打ちのスタイルは、<br />〈誇り高き武士の礼儀〉のように思われていますが、<br />本当は、名乗ることで自分の戦功を周囲に証明するだけのことです）<br /><br />日本人が日本人としてのナショナル・アイデンティティを持つのは、<br />明治時代になってからにすぎません。<br />(<a title="社会科学編" href="http://www.obunsha.co.jp/shoshi/symfony/show/code/030424/side/CategoryKokoSankosyo01" target="_blank">社会科学編「11　国家という病」</a>参照)<br />御家人たちは誰一人として〈国のために〉戦ったわけではなかったのです。<br /><br />ところで、国家とは一つの空間的実在ですから、<br />複数の国が同一の場所を共有することはできません。<br />２つの国の間には、〈国境〉を引く必要があります。<br />アメリカ人日本古代史研究者のブルース・バートンさんが著わした<br />『国境の誕生』(ＮＨＫブックス)は、<br />古代の朝廷が設置した大宰府という〈国境〉にスポットを当てた著作です。<br /><br />九州に外交の出先機関として大宰府が置かれた７世紀後半、<br />朝廷は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大惨敗を喫していました。<br />この時が最初で最後、〈国家存亡の危機〉を本気で感じた時期でしょう。<br />朝廷は、軍団兵士制という徴兵に基づく国軍を作り上げるとともに、<br />朝鮮半島からの渡来人の来日も厳しく取り締まりました。<br />それが大宰府の始まりです。<br />〈日本〉の領域を明確に意識しつつ、外部からの他者は強力に排除する。<br />大宰府こそが日本初の〈国境〉であったと言えると思います。<br /><br />しかし、それはあくまでも国家(朝廷)レベルでの視点です。<br />民間レベルではどうだったのでしょう。<br />９世紀末、朝廷は300年以上続いた遣唐使を廃止しましたが、<br />その一方で、僧侶や商人たちの私的な往来は活発となっていきました。<br />10世紀以降、大宰府は貿易センターの様相を呈します。<br />朝廷が〈国家〉の意識にとらわれ、かたくなに国交を拒否している間に、<br />人々は軽々と〈国境〉を超え、真の意味での国際交流が始まったのです。<br /><br />(なお、「遣唐使の廃止により海外からの影響がなくなり、<br />国風文化が開花した」という一見もっともらしい見解は、<br />私的交流が活発化していたという事実を前に説得力を持ちません。<br />藤原氏ら貴族たちも、自分たちは外国人との接触を避けていたのに、<br />留学僧が持ち帰った仏像や陶磁器は「唐物」と珍重していたのですから。<br />現在では、長年にわたる中国文化の消化・吸収の上に立って、<br />日本的に洗練された文化が成立したと考えられています）<br /><br />〈国〉とは何か、〈日本〉とは何か。<br />自明にも思えるだけに、その中身を問い直す必要がありそうです。<br /><br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 26 Jul 2010 01:45:00 -0000</pubDate>
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<title>ねじれ国会の作法</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15461.html</link>
<description><![CDATA[昨日行われた第22回参議院通常選挙において、<br />連立政権を組む民主党と国民新党は非改選議席を合わせても過半数を獲得できず、<br />衆参国会で再びねじれ現象が生じることになりました。<br />参議院で野党が過半数を上回る国会のねじれ現象は、<br />前回の2007年の第21回参議院選挙で、<br />自民党・公明党の連立政権(安倍内閣)が敗北したのに引き続いてです。<br />その時は衆議院の３分の２ルールを利用して法案を通すことができましたが、<br />それでも野党だった民主党の審議拒否戦術に苦しめられ、<br />安倍内閣の後を継いだ福田内閣が短命に終わる原因となりました。<br />今回は直前に社民党が連立を離脱したため衆議院で３分の２を確保しておらず、<br />菅内閣はさらに苦しい立場に置かれることが予想されます。<br /><br />＊参考　衆議院の３分の２ルール<br />日本国憲法は国会に関する規定において、法律案・予算の議決・条約の承認について衆議院の優越を定めている。特に法律案については、第59条２項に「衆議院で可決し、参議院で異なる議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる」とある。これが３分の２ルールで、2006年のいわゆる優勢選挙で衆議院では圧倒的優位を保っていた当時の連立与党はこれでしのいだ。<br /><br />ですが、国会議員の役割は法律を作ることです。<br />それは与党であっても野党であっても変わりありません。<br />数の論理だけで与党が多数決を強行する、<br />逆に、党利党略のため野党が審議拒否を繰り返す。<br />こうした醜い争い末、政治が停滞して被害を受けるのは国民です。<br /><br />ねじれ現象とは、見方を変えれば与党と野党が真剣に議論を戦わせ、<br />修正案を出しあって一歩ずつ前進していく絶好の環境だとも言えます。<br />それなのに、無用の対立を続けてきたのは与党・野党双方の責任です。<br />なぜ、議論を進めるルール作りをしてこなかったのか。<br />こう思うのは、戦前の議会ではそうした努力がなされ、<br />きわめて民主的な議会運営が行われていたからです。<br /><br />1989年２月12日、大日本帝国憲法が発布された翌日のこと、<br />時の黒田清隆首相は地方長官を招いた晩餐会で、<br />「超然主義演説」と呼ばれる次のような演説を行いました。<br /><br />「欽定の憲法は臣民の敢て一辞を容ることを得ざるは勿論、各般の行政は之に準拠して針路を定め、天皇陛下統治の大権に従属すべきは更に贅言を要せざるなり。然るに政治上の意見は人々其所説を異にし、其説の合同する者相投じて一の団結をなし、政党なる者の社会に存立するは情勢の免れざる所なりと雖、政府は常に一定の政策を取り、超然政党の外に立ち、至正至中の道に居らざる可らず。各員宜く意を此に留め、常に不偏不党の心を以て人民に臨み、其間に固執する所なく、以て広く衆思を集めて国家_隆の治を助けんことを勉むべきなり」(仮名づかいを改めた)<br /><br />この演説は、帝国議会の開催を前にして、<br />政府は議会や政党の意向に左右されない立場を表明したものとして、<br />教科書などでは否定的に説明されています。<br />しかし、その文言を先入観なしに読んでみると、<br />言わんとするところは、意見を同じくする者たちは政党を結成するけれども、<br />政府は「常に一定の政策を取」るために、<br />「政党の外に立」って「至正至中の道に」いなければならない。<br />だから、「不偏不党の心」で人民に臨んで、「広く衆思を集めて」政治を行おうという、<br />きわめて真っ当なことです。<br /><br />黒田や伊藤博文ら藩閥政府首脳の真意は、<br />政府が一つの政党の意見に偏ってはいけないという点にあったことは、<br />伊藤が「一政府の党派は甚だ不可なり」と述べていることからも分かります。<br />多くの政党、多くの人々の意見を集約して政治を行っていこうというのが、<br />「超然主義」のそもそもの意味合いだったのです。<br /><br />＊参考　藩閥政府<br />明治新政府を発足させた薩摩藩と長州藩の出身者が要職を独占した状態の政府のこと。初期の内閣は、伊藤(長州)&rarr;黒田(薩摩)&rarr;山県(長州)&rarr;松方(薩摩)&rarr;伊藤(長州)&rarr;松方(薩摩)と薩長で交互に担当していた。<br /><br />翌1890年７月１日の第１回衆議院総選挙において、<br />板垣退助率いる立憲自由党など民党(自由民権派の流れをくむ政党)が勝利し、<br />吏党(藩閥政府を支持する政党)が過半数を取れなかったことから、<br />初期議会では藩閥政府と民党とが激しくぶつかり合いました。<br /><br />しかし、両者は空しく対立していたわけではありません。<br />藩閥政府からすれば、予算を議会で通さなければなりません。<br />一方、民党にとっても、政策を実現するには政府への歩み寄りが必要です。<br />(だから、政府を飛び出して反対していれば良いといわんばかりの福島大臣の態度が、<br />僕には無責任にしか思えないのです）<br />かくして、しだいに意見調整のためのルールが作られていきます。<br />そして、日清戦争後には板垣が入閣を果たすなど藩閥政府と民党は接近していき、<br />政党内閣への下地が準備されていくのです。<br /><br />前回、東大日本史の問題を考えながら、<br />戦前の大日本帝国憲法下でも民主政治は花開いていたと論じました。<br />それは、政治家が憲法を民主的に運用しようと努力していたからこそです。<br />そのボールは、ねじれ国会を迎える与野党の議員に投げ返されています。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 12 Jul 2010 00:35:00 -0000</pubDate>
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<title>民主的な憲法、民主的でない世の中</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15335.html</link>
<description><![CDATA[前回の話の続きです。<br />憲法を運用するのは私たち国民自身である。<br />だから、民主的な日本国憲法があるというだけでは、<br />戦後の日本にデモクラシー(民主政治)が根づいたとは言えないのではないか？<br />最近の内閣の短命さと、首相が交代するだけで支持率が回復する無節操さから、<br />このような問題提起をしました。<br /><br />今回も東京大学の日本史の入試問題を題材に考えてみたいと思います。<br />戦前の大正デモクラシー期に民本主義を説いた吉野作造の文章を引いて、<br />大日本帝国憲法と日本国憲法における三権分立のありかたの違いを<br />考察させる問題です。<br />設問文のみ掲載します。<br /><br />「大日本帝国憲法と日本国憲法の間には共通点を相違点がある。たとえば、いずれも国民の人権を保障したが、大日本帝国憲法では法律の定める範囲内という制限を設けたのに対し、日本国憲法にはそのような限定はない。では、三権分立に関しては、どのような共通点と相違点を指摘できるだろうか。６行以内で説明しなさい」(2005年・東大日本史・第４問)<br /><br />前回も指摘したとおり、<br />大日本帝国憲法においては、国家元首たる天皇が統治権を総攬し、<br />行政府の内閣も(内閣という言葉自体が憲法にはありませんでした)、<br />立法府の帝国議会も、司法府の裁判所も天皇に直属する機関だったため、<br />三権分立が明確でなかった。<br />教科書的に答えればそうなるでしょう。<br />実際に、受験界で流通する解答例はそのような論旨で書かれています。<br /><br />しかし、僕には吉野作造の文章を引いているところが気にかかります。<br />戦前にデモクラシーの実現の可能性を主張していた憲法学者の文章なのです。<br /><br />＊参考　吉野作造の民本主義<br />　吉野作造は戦前を代表する憲法学者で東大教授。雑誌『中央公論』に論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、政治の根本は民衆にあるとして政党内閣の実現を説いた。吉野が〈民本主義〉という語を用いたのは、主権在民(国民主権)の〈民主主義〉と一線を画すためであり、主権在君(天皇主権)の大日本帝国憲法の枠内にとどまる限界はあったが、大正デモクラシーの理論的支柱となった。<br /><br />例えば、第４条にある次の条文をどう解釈すれば良いでしょうか？<br />「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覽シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」<br />前回は〈統治権ヲ総覽〉する天皇ということで引用しましたが、<br />今回注目してほしいのは、後半の「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」です。<br />ここには、天皇は憲法に従って統治権を行使しなければならないという、<br />国家権力の無条件の発動を抑制する、立憲主義の立場が示されています。<br /><br />この条文は、憲法制定時に伊藤博文の意向で盛り込まれたものです。<br />伊藤は、将来的に議会政治や政党内閣に道を開きたいと考えていました。<br />吉野作造とともに大正デモクラシー期の理論的指導者だった美濃部達吉は、<br />この第４条の文言を根拠に天皇機関説を唱え、<br />大日本帝国憲法下でも政党内閣の実現は可能だと主張しました。<br />そして、短期間に終わりましたが、<br />〈憲政の常道〉と呼ばれる期間が出現します。<br />(<a title="5月17日付ブログ" href="http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14878.html" target="_blank">５月17日付ブログ</a>参照)<br />伊藤博文が大日本帝国憲法の中に播いたデモクラシーの種は、<br />戦前においても確かに花開いたのです。<br /><br />＊参考　美濃部達吉の天皇機関説<br />　美濃部達吉も戦前を代表する憲法学者で東大教授。天皇機関説とは、天皇を国家の最高機関とみなし、統治権の行使に憲法の制約を求める理論で、議会政治・政党内閣に道を開くものであった。1930年代に入り軍部・右翼が台頭すると、この説が国体に反するとの批判が起こり(天皇機関説事件)、1935年、時の岡田内閣が国体明徴声明を発して公式に否定されるにいたる。しかし、昭和天皇自身は美濃部の天皇機関説を支持していた。<br />　なお、美濃部は戦後、憲法改正(日本国憲法制定)のため発足された憲法問題調査委員会の顧問に選ばれているが、美濃部は憲法改正の必要はないと主張している。大日本帝国憲法の枠組みにおいてもデモクラシーは実現できると考えていたからである。<br /><br />こうした、大日本帝国憲法に埋め込まれた立憲主義の精神に注目すれば、<br />三権分立は明文化されていなくても実質的にはそのような運用がされていた、<br />そのように捉えることも可能です。<br />例えば、天皇の協賛機関との位置づけだった帝国議会も、<br />予算の成立には議会の同意が必要でしたから、<br />一定の発言力を持っていました。<br />また、裁判官が自らの良心と法に従って裁いていたことは、<br />現在の日本国憲法下と変わりません。<br />憲法に従って統治権を行使する天皇の下で、<br />三権分立は実質的に成立していたとも言えるのです。<br /><br />それでは、三権分立が明文化された日本国憲法ではどうなのでしょうか？<br />国会は〈国権の最高機関〉〈唯一の立法機関〉とされていますが、<br />官僚が作成した内閣委任法案や、<br />行政に大幅な裁量が認められた委任立法の増加など、<br />立法府としての役割が形骸化している面も否めません。<br />また、受験界が権力の抑制と均衡(これこそが三権分立の趣旨です)の例として<br />必ず挙げる、裁判所の違憲立法審査権と最高裁判所裁判官の国民審査は、<br />これこそ本当に形だけのものとなっています。<br /><br />明文化されていなくても、実質的に運用される。<br />逆に、明文化されていても、形骸化する。<br />こうしたことが生ずるのは、<br />憲法を運用し、その精神を現実の社会に反映させるのは、<br />私たち国民自身であるからです。<br />受験界のありきたりな答案とは別世界で、<br />東大日本史はそういう恐ろしいことを問いかけているように思えてなりません。<br /><br />＊参考　受験界の一般的な答案<br />大日本帝国憲法では、三権は主権者として統治権を総覽するものとされ、帝国議会は立法権の協賛機関、内閣の各国務大臣は個別に天皇を輔弼するのみ、裁判も天皇の名の下で行われるなど、三権分立は形式的なものにすぎなかった。一方、日本国憲法では、国民主権を原理に、議院内閣制における国会の内閣首班指名や裁判所の違憲立法審査権など各機関の均衡が図られ、三権分立が明確化された。 ]]></description>
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<pubDate>Mon, 28 Jun 2010 01:00:00 -0000</pubDate>
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<title>内閣が短命な理由</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15252.html</link>
<description><![CDATA[かつて、東京大学の日本史の入試問題で、<br />〈戦前の内閣が短命だったのはなぜか〉という問題が出題されたことがあります。<br />今から30年ほど前、1885年に内閣制度が発足して <br />100年ほど経とうとしていた、1981年のことです。<br />大日本帝国憲法と日本国憲法における政治制度の違いから考えさせる、<br />とても面白い問題でしたので、長いですが全文を引用します。<br />&nbsp;<br />「1885(明治18)年12月、日本において近代的内閣制度が制定され、第１次伊藤内閣が発足して以来、1947(昭和22)５月、大日本帝国憲法に代って日本国憲法が施行され、第１次吉田内閣が退陣するまで、１代の内閣(同一の首相が連続して内閣を組織した場合は１代として数える。以下同じ)の平均存続期間は約１年５カ月であった。これは日本国憲法の時代における１代の内閣存続期間が約２年９カ月(1980年７月の大平内閣総辞職まで)であるのに較べると、いちじるしく短い。<br /><br />　帝国憲法の時代(内閣制度制定以後憲法発布までを含む)の内閣がこのように短命であったのは、いかなる理由によるものと考えられるか。帝国憲法のもとでの政治制度の特色に即して、その理由を200字以内で述べよ」<br />&nbsp;<br />まず、教科書的な説明をしておきましょう。<br />第１に、大日本帝国憲法において内閣は天皇に直属する一機関にすぎず、<br />他の機関からの攻撃や干渉を受けやすかったことが指摘されます。<br />大日本帝国憲法では、天皇が主権者で、強大な権力を握っていました。<br />第４条にはこうあります。<br />「天皇ハ国家ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」<br />〈統治権ヲ総攬(そうらん)〉、つまり、この国の行き先を一人で全部決めるのが、<br />天皇だったのです。<br />&nbsp;<br />それゆえ、大日本帝国憲法下の諸機関は、<br />独立して天皇に直属するものとして位置づけられていました。<br />例えば、帝国議会は第37条で次のように規定されています。<br />「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」現在の日本国憲法のように、三権分立の原則の下で立法権は国会に属するのではなく、立法権は国家元首たる天皇が握る、<br />そして、帝国議会は天皇の〈協賛〉機関にすぎなかったのです。<br />&nbsp;(同様に、司法権も天皇が握り、戦前の裁判は全て天皇の名の下に行われました) <br />また、陸海軍の指揮権(統帥権)も天皇の専権事項であり、<br />軍部への内閣・議会の干渉は許されませんでした(統帥権の独立)。<br />&nbsp;<br />このように、大日本帝国憲法において諸機関は天皇に独立して直属し、<br />内閣もその一機関にすぎないという位置づけだったため、<br />帝国議会・軍部・枢密院など他の機関からの攻撃を受けやすかったのです。<br />例えば、内閣制度発足当初の薩長藩閥政府は<br />議会で多数を占める民党(民権派)の攻撃を受けましたし、<br />軍部は軍部大臣現役武官制を悪用して倒閣に動くこともありました。<br />また、枢密院が緊急勅令案を否決して<br />第１次若槻内閣を退陣に追い込んだ例も知られるところです。<br />戦前の内閣は、外部の機関に取り囲まれた状態だったのです。<br />&nbsp;<br />＊参考　軍部大臣現役武官制<br />陸軍大臣・海軍大臣の任用は現役の大将・中将に限るとした制度。内閣が要求に応じない場合、軍部は大臣を引き上げて倒閣に動いた。上原勇作陸相の単独辞任による第２次西園寺内閣の総辞職(1912)や、陸相候補の事態による宇垣内閣の不成立(1937・「流産内閣」と呼ばれた)などの事例がある。<br />&nbsp;<br />＊参考　枢密院<br />天皇の諮詢にこたえ重要国務を審議する機関。国務大臣と枢密顧問から構成される。1927年、金融恐慌が発生する中で、第１次若槻内閣が進める協調外交(中国不干渉政策)に不満を抱く枢密顧問らは、内閣から提出された台湾銀行救済の緊急勅令案(緊急勅令は帝国議会の閉会中に法律に代わって認められていた天皇の勅令で、枢密院で審議するとされた)を否決し退陣に追い込んだ。<br />&nbsp;<br />第２に、内閣そのものの組織の弱さも指摘しなければなりません。<br />実は、大日本帝国憲法に〈内閣〉の語は一度も用いられてはおらず、<br />慣用的にそう呼ばれていたにすぎないのです。<br />&nbsp;(つまり、制度的な規定は何もないということ) <br />国務大臣に関しては第33条に次のような規定があります。<br />「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」<br />大日本帝国憲法下の国務大臣は、<br />外相は外交のこと、蔵相は財政のことといったように、<br />統治権を総攬する天皇を個別に〈輔弼(ほひつ・助ける)〉だけでした。<br />首相には各大臣の統率権限も規定されていません。<br />&nbsp;(日本国憲法では首相が大臣の任命権者ですから、<br />意向に従わない大臣は福島大臣のように罷免できます）<br />戦前の内閣はばらばらの組織だったのです。<br />&nbsp;<br />まとめると、内閣そのものの組織としての弱さと、<br />他の機関との関係から、戦前の内閣は憲法制度的にぜい弱で、<br />それゆえ短命に終わったということが、解答の要点となります。<br />&nbsp;<br />ところが、です。<br />平成になってから22年間ですでに16人の首相が誕生しています。<br />内閣１代あたり約１年半ですから、戦前とほとんど変わりありません。<br />政経の教科書などを読むと、<br />「戦後の日本は、民主的な日本国憲法が制定され、民主的な世の中になった」<br />という趣旨の文章が、かなり不用意に書かれています。<br />ですが、憲法を民主的に運用するのは私たち国民自身です。<br />首相が交代しただけで支持率が回復するのを見るにつけ、<br />この国には本当の意味でのデモクラシー(民主政治)が根づいていないと感じざるを得ません。 ]]></description>
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<pubDate>Mon, 21 Jun 2010 01:15:00 -0000</pubDate>
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<title>〈リセットボタン〉を押すのは誰か</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15088.html</link>
<description><![CDATA[僕が小学校５年生か６年生の頃のことだと思います。<br />ちょっと裕福な友達の家に行くと、<br />「ファミコン」というゲーム機がテレビに備え付けられていて、<br />家にいながらゲームセンターにあるゲームができることに、<br />いたく感動したことを覚えています。<br />(注記：調べたところ「ファミコン」の販売開始は1983年でした)<br /><br />今のものと比べると、他愛のないソフトばかりでしたが、<br />しかし、「ファミコン」には恐るべき機能が備わっていました。<br />それは、〈リセットボタン〉です。<br />どうにも上手くいかない状況になったら、〈リセットボタン〉を押せば、<br />ゲーセンのように新たにコインを投入することもなく最初からやり直せる。<br />なんてすごい機能なんだ。<br />時に友達との喧嘩の原因になりつつも、<br />子ども時代から多少ひねくれた性格の持ち主であった僕の心には、<br />「ファミコン」と言えば〈リセットボタン〉と植え付けられした。<br /><br />この〈リセットボタン〉が、きわめて日本人の特性に根ざしたもので、<br />任天堂という日本の企業だからこそ生み出されたものである、<br />ということを理解したのは、<br />大学を出て、予備校講師になって、<br />この国の歴史や社会についてちゃんと勉強するようになってからのことです。<br />(注記：皆さんは学生のうちに勉強して下さい。本当に反省しきりです)<br /><br />日本史を勉強している人なら、<br />〈代始めの徳政〉という言葉を聞いたことがあると思います。<br />中世(室町時代)、民衆は、将軍や天皇が交代したときに、<br />代が改まってところでこれまでのことを帳消しにしてくれと、<br />債務の破棄(徳政)を求めて一揆を起こしました。<br />最も有名なのが、1441(嘉吉元)年の嘉吉の徳政一揆です。<br />嘉吉の乱によって６代将軍足利義教が暗殺され、<br />新たに７代将軍として足利義勝が即位したことを受けて、<br />京都の民衆が〈代始めの徳政〉を求めて蜂起したものです。<br />(この時、室町幕府は要求を受け入れて徳政令を発布しています)<br />また、さかのぼって1428(正長元)年の正長の土一揆においても、<br />将軍の交代(５代義量から６代義教へ)・天皇の交代(称光から後花園へ)<br />・年号の改元(応永から正長へ)という３つのチェンジが重なり、<br />〈代始めの徳政〉を始める機運が高まっていたと考えられます。<br /><br />将軍や天皇が変わったら、借金もチャラになる。<br />このきわめて奇異な観念を、教科書はこう説明しています。<br /><br />「中世には、支配者の交代によって、所有関係や貸借関係など、社会のさまざまな関係が改められるという観念が存在した。将軍の交代の時に「天下一同の徳政」を要求して土一揆が放棄した背景には、この社会観念が大きく作用していた」(山川出版社『詳説日本史B』125ページ脚注)<br /><br />つまり、将軍や天皇の交代が、<br />すべてをゼロからやり直せるという〈リセットボタン〉の役割を果たしていたということです。<br />こうした観念は、中世にかぎらず、<br />古代の朝廷においても、災害や疫病が発生するたびに、<br />巻き直しの想いも込めて改元がたびたび行われました。<br />また、近世(江戸時代)にも、<br />地震は日常的な社会関係を解体するものと受け止められ、<br />鯰絵が地震を起こした〈世直し鯰〉として縁起物とされたという記録が、<br />幕末の1855(安政２)年に発生した安政大地震に際して残されていました。<br /><br />このような〈リセットボタン〉の発想は、<br />ツミ(罪)を内面的な良心にかかわるものとは考えず、<br />外部からもたらされたケガレ(穢れ)と捉えて、<br />ミソギ(禊)やハライ(祓い)をすればきれいさっぱり水に流せるという、<br />日本人の特性(罪の意識の欠如)と関連するものと考えられます。<br />現代においても、自己破産する人が多いのも、<br />こうした意識と関係するのかもしれません。<br />(注記：自己破産の件数は、2006年度で166,527件)<br /><br />〈リセットボタン〉は、本当に最初からやり直したいとき、<br />それまでのしがらみを断ち切る良い機会であるとも言えます。<br />しかし、それを連発すれば効果は薄れ、信用を失うだけです。<br />それは、自民党政権の末期に支持率の回復ねらいで首相の交代を繰り返し、<br />結果的に大敗したことからも明らかでしょう。<br /><br />そして今回、民主党までもが〈リセットボタン〉を押しました。<br />ですが、本当に〈リセットボタン〉を押したいのは、国民のはずです。<br />こういう時、政権の座にある者は決まって、<br />「政治的空白を作ってはならない」と言います。<br />しかし、国民の審判を受けていない政権こそ、<br />「政治的空白」以外の何者でもありません。<br /><br />菅内閣の最初の仕事は、衆議院の解散であるべきです。<br /><br />]]></description>
<guid isPermaLink="true">http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15088.html</guid>
<pubDate>Mon, 07 Jun 2010 01:15:00 -0000</pubDate>
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<title>アダム・スミスの〈利己心〉と〈抑止力〉</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/15010.html</link>
<description><![CDATA[今回は、アダム・スミスだったら沖縄問題をどう見るかという話をします。<br /><br />17~18世紀のイギリスでは、<br />産業資本家(ブルジョアジー)や自営農の経済的成長を背景に<br />絶対王政などの封建的な社会制度の打破を求める声が強まり、<br />ピューリタン革命(1642~49)・名誉革命(1688)という２つの市民革命をへて、<br />〈自由で平等な個人〉からなる市民社会が成立しました。<br />こうした中で、人間が本性として持つ〈利己心〉を重視したのがアダム・スミスです。<br /><br />スミスの言う〈利己心〉とは、わがままや身勝手のことではありません。<br />自分の幸福を願い追い求める心、と考えてくれれば良いでしょう。<br />人間は他人の幸せ以上に自分の幸せについて真剣に考える。<br />そのことを、スミスは次のような比喩で巧みに表現しています。<br /><br />「いま中国の大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。そして、かかる地球の一角になんら関係のないヨーロッパの人道の士が、この恐るべき災害の報に接してどのように感ずるかを考察してみよう。<br />ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難にたいして強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。<br />さて、すべてこうした哲学がひと段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、今宵は寝もやられぬであろう」<br />(『道徳感情論』)<br /><br />都会では自殺する若者が増えているとニュースでは言うが、<br />僕にとって問題は君に逢いに行くのに傘がないことだ。<br />井上陽水がこう歌った感情が〈利己心〉です。<br />しかし、スミスはこれを決して否定せず、<br />〈利己心〉こそが社会全体の発展の原動力であると考えました。<br />(その時に働くのが、スミスが「神の見えざる手」と呼んだ市場原理ですが、<br />その点に関しては<a title="社会科学編" href="http://www.obunsha.co.jp/shoshi/symfony/show/code/030424/" target="_blank">社会科学編</a>「５．資本主義の行方」をお読み下さい）<br /><br />さて、アダム・スミスが代表作『諸国民の富(国富論)』を刊行したのが1776年、<br />アメリカ独立革命が出される数カ月前のことでした。<br />スミスは、当時はスミスの母国イギリスの植民地であった、<br />アメリカにおける独立の動きについて〈利己心〉の観点からこう論じています。<br /><br />「アメリカにおけるヨーロッパの植民地は，現在まで，母国の防衛のために兵力を提供したことはただの一度もない。かれらの兵力は，自衛にさえ不十分であった。そして，母国がさまざまな戦争をする場合にいつも，その植民地の防衛が，一般に，母国の兵力ははなはだしい分散をひきおこしているのである。それゆえ，この点では，ヨーロッパ諸国の植民地は，いずれも例外なく，それぞれの母国の国力を強めるよりもむしろ弱める原因となっている」<br />(『諸国民の富(国富論)』)<br /><br />植民地(アメリカ)の人々が母国(イギリス)のために命がけで戦うことはない。<br />〈利己心〉が働かないからである。<br />同様に、母国の人も植民地の防衛のため必死に戦うことはないから、<br />植民地は母国の国力を弱めるだけである。<br />スミスはこう考えて、アメリカの独立に賛成しました。<br /><br />私たちが命をかけて戦うのは、<br />自分のため、愛する家族のため、そして祖国のためです。<br />(ナショナリズムに関する問題は、ここでは深追いしません)<br />どんな国でも兵士が子どもたちの憧れとなり人々の尊敬を集めるのは、<br />自分たちを守ってくれているという思いゆえでしょう。<br />そして、そういう思いを受けてこそ、兵士たちは任務を全うできる。<br />この国を守るのは、この国を守りたいという〈利己心〉に根ざした心なのです。<br /><br />アダム・スミスのこうした議論を踏まえて考えたとき、<br />アメリカに守ってもらう形での〈抑止力〉とは何なのかを、<br />その実効性も含めて疑わざるをえません。<br />また、どの地方自治体もアメリカ軍の受け入れに難色を示すのも、<br />当然のことのように思います。<br />(アメリカ人の兵士がどういう思いで日本を守るのかも聞きたいところです)<br />加えて、国民からなんら敬意を払われないのは、<br />自衛隊にとっても不幸なことでしょう。<br /><br />僕は〈抑止力〉に対しては否定的で、<br />今後は人間の安全保障に力を注ぐべきだと考えていますが、<br />(<a title="社会科学編" href="http://www.obunsha.co.jp/shoshi/symfony/show/code/030424/" target="_blank">社会科学編</a>「12．冷戦後の世界」参照)<br />もし〈抑止力〉が必要だと言うのであれば、<br />なぜそれをアメリカに頼るのかということから考えなければなりません。<br /><br />追記<br />社民党の党首である福島大臣が、<br />日米共同声明に関する閣議署名を拒否して罷免されました。<br />ここまでは政治信条を全うしたということで理解できます。<br />しかし、罷免後に会見に臨んだ福島(前)大臣の口からは、<br />鳩山政権に対する恨み節は聞こえてきても、<br />沖縄の人たちに対する謝罪の言葉は何一つありませんでした。<br />普天間問題を解決できた(る)のは、政権内にいた(る)者だけです。<br />まず、解決できなかったことをお詫びする、<br />それこそが連立与党の党首としての責任の取り方でしょう。<br />結局、福島大臣は政権を担うという意識が最後まで欠けていた。<br />そう感じざるを得ない記者会見でした。<br /><br />]]></description>
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<pubDate>Sun, 30 May 2010 15:00:00 -0000</pubDate>
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<title>小説・ナカトミノカマタリ</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14942.html</link>
<description><![CDATA[&minus;&minus;わたくしぃ、ナカトミノカマタリと申す者ですが〜<br />家には時おり、不可解な電話がかかってくるものである。しかし、これは飛び抜けていた。僕が日本史講師だとはいっても、「中臣鎌足」という知り合いはいない。<br />&minus;&minus;&ldquo;トミー&rdquo;って呼んで下さい。みんなもそう呼んでますから。<br />どういう略し方をしているんだか。きっと、中大兄皇子も、中臣鎌足のことを&ldquo;トミー&rdquo;とは呼んでいなかっただろう。<br /><br />金曜の夜、僕は次の日の授業の予習を終えると、若手のお笑い10組が競演し、観客の投票で上位５組だけがオン・エアーされる番組を見ることにしていた。電話がかかってきたのは、ちょうどお目当ての、黒頭巾がカエルと牛の人形を操ってコントをさせる番の時だ。12時をもう過ぎている。こんな時間にかけてくるなんて、相手のことなど何も考えていない失礼なセールス以外に考えられない。これまでの苦々しい経験の数々がよぎって、少し胸がドキドキした。<br />&minus;&minus;で、突然ですけど、今流行りの、ゴマフアザラシ語を始めてみたいと思いませんか？<br />ほらやっぱりだ。セアカゴケグモ語、ニホンカモシカ語、今月でもう３件目になる。<br />&minus;&minus;いや、別に今のところ考えていませんし、それに、人間の言葉で精一杯ですから<br />&minus;&minus;何を器の小さいことを言っているんですか〜。グローバル・スタンダードの時代ですよ。異文化コミュニケーションの時代ですよ。動物一匹と話もできないで、これからどうやって生きていくんですか・・・<br />僕は、予備校講師にはあるまじく、人と話すのが苦手だった。特にこういう電話がダメである。どこでどう断って、電話を切れば良いのか、タイミングがつかめず途方に暮れてしまうのだ。「人間の言葉で精一杯」とは、偽らざる気持ちであった。グローバル・スタンダードはおろか、この国の人間の言葉だって、ちゃんとは理解できていない。<br /><br />&minus;&minus;いえいえ、ゴマフアザラシ語って、とっても簡単なんです。動詞の活用も３つしかないんですよ。アウッ、アウッ、アウッ。って、これはアシカでしたっけ？　でも、こういう所から勇気を出して飛び込んでいく。それが混迷日本を変えていくためにも、必要なことだと思いませんか？　新しい自分を発見してみましょうよ。自己啓発系のセールスは、たいていこういうことを言う。「本当の自分」なんて、どこにあるというのだ。けれども、中臣鎌足に言われていると思うと、少しだけ説得力があるような気がした。<br /><br />ようやく電話が解放されたときには、カエルと牛のコントは終わってしまっていた。あの黒頭巾は、どうやって会話しているのだろう。そして、どうやって人間の言葉を教えたのだろう。２匹の毒舌はなかなかのものだ。僕は黒頭巾の苦労と、歴史上の中臣鎌足と中大兄皇子の会話を思った。<br /><br />次は、名古屋出身の大衆演芸の匂いを残す二人組だ。1970年代にタイム・スリップしたようなボケに対し、それに輪をかけて時代錯誤な風体のツッコミが、頭の上で右手をひらひらさせて、「あたしは認めないよ」とやっていた。目も当てられない失笑が浴びせられたが、繰り返されると思わず吹き出してしまう。案外、来年あたり流行語大賞を取るかもしれない。<br />僕は、この世界のあらゆるものに、「あたしは認めないよ」とツッコミを入れられたら、どんなに楽だろうにと思った。ナカトミノカマタリ？　あたしは認めないよ。ゴマフアザラシ語？　あたしは認めないよ。<br /><br />]]></description>
<guid isPermaLink="true">http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14942.html</guid>
<pubDate>Mon, 24 May 2010 00:55:00 -0000</pubDate>
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<title>あの頃に似ている３</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14878.html</link>
<description><![CDATA[前回からの続きです。<br />加藤高明内閣以降も、元老・西園寺公望の判断によって、<br />約８年の間、「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の時代が続きました。<br /><br />加藤高明内閣(1924.6〜1926.1)〈憲政会〉<br />第１次若槻礼次郎内閣(1926.1〜1927.4)〈憲政会〉<br />田中義一内閣(1927.4〜1929.7)〈立憲政友会〉<br />浜口雄幸内閣(1929.7〜1931.4)〈立憲民政党〉<br />第２次若槻礼次郎内閣(1931.4〜1931.12)〈立憲民政党〉<br />犬養毅内閣(1931.12〜1932.5)〈立憲政友会〉<br /><br />立憲民政党は、憲政会と政友本党が合併して発足した政党です。<br />&nbsp;(第２次護憲運動の際は敵対していたはずなのですが)<br />一方、この間に立憲政友会も革新倶楽部を吸収しています。<br />つまり、この時期は立憲民政党(憲政会)と立憲政友会の二大政党制が成立し、<br />今の日本の政治が目指しているような、政権交代も行われていたのです。<br /><br />しかし、前回のブログでも書いたとおり、<br />政党は国民の側を向いてはいませんでした。<br />当初、政党の向けられていた期待は、失望と怒りに代わっていきました。<br /><br />政党が国民の信頼を失った第１の要因は、<br />慢性的不況に対して抜本的な解決策を示せなかったことです。<br />1920年代の日本経済は、戦後恐慌(1920)のダメージを回復できぬまま、<br />その後も、震災恐慌(1923)・金融恐慌(1927)と危機が立て続けに訪れ、<br />出口の見えない不況が続いていました。<br />(大戦景気で不健全に膨張した「成金」企業が相次いで倒産し、<br />銀行は融資が焦げつき不良債権を抱えて経営が悪化、<br />国も借金に苦しむという状況は、<br />1990年代の「失われた10年」とそっくりです。<br /><a title="社会科学編" href="http://www.obunsha.co.jp/shoshi/symfony/show/code/030424/side/CategoryKokoSankosyo06" target="_blank">社会科学編</a>「２．バブル景気と「失われた10年」」参照)<br />1930年には、前年に発生した世界恐慌の影響を受けて昭和恐慌に突入、<br />都市には失業者があふれ返り、農村も米価や繭価の下落で困窮します。<br />こうした中で、国民の政党離れは進んだのでした。<br /><br />続いて、政党が国民の信頼を失った第２の要因は、<br />立憲民政党(憲政会)も立憲政友会も党利党略に終始したことです。<br /><br />政党内閣が続いた時期には数多くの汚職事件が発覚しましたが、<br />その中で最も注目を集めたのが、五私鉄疑獄事件でしょう。<br />これは、立憲政友会・田中義一内閣で鉄道大臣を務めた小川平吉が、<br />５つの鉄道会社から便宜供与の見返りに金銭を受け取っていたことが発覚し、<br />逮捕・起訴されて有罪となったという事件です。<br />その裏では、政権交代した立憲民政党・浜口雄幸内閣で<br />鉄道大臣となった江木翼が動いていたとも言われます。<br /><br />国民は政財界の癒着に怒りを覚えましたが、<br />それ以上に、政党が自浄能力を発揮しようともせず、<br />お互いにお互いの足を引っ張りあう姿に、あきれ返りました。<br /><br />そして、手段を選ばぬ相手に対する攻撃は、<br />自らの首を絞めることになったのです。<br />1930年、軍部は立憲民政党・浜口雄幸内閣に対して、<br />ロンドン海軍軍縮条約の調印は統帥権の干犯だとする批判を展開しましたが、<br />立憲政友会は、憲法上問題のないことを分かっていたにもかかわらず、<br />これに賛同し、倒閣に動きました。<br />これは、自らのよって立つ立憲政治の大前提を自ら否定するものでした。<br /><br />＊参考　統帥権干犯問題<br />1930年、浜口内閣が補助艦の保有量の制限を取り決めたロンドン海軍軍縮条約に調印すると、これを不満とする軍部(海軍軍令部)は、統帥権の独立(陸海軍の指揮権は天皇に属し、内閣の干渉を受けない)を犯すものと批判した。しかし、条約の調印は兵力量の決定にあたるものであり、憲法上でも内閣の補弼(助言)が必要とされていた(予算に関わるので当然である)。立憲政友会の動きは憲法そのものを踏みにじるものであったと言える。<br /><br />1930年11月、浜口首相は東京駅で右翼の青年に撃たれ、重傷を負います。<br />(一命は取り留めたものの、傷が癒えず翌1932年に内閣総辞職、後に死亡)<br />ここから、血気盛んな青年将校や右翼による<br />テロとクーデターの時代に突入しました。<br /><br />三月事件(1931)：陸軍桜会・橋本欣五郎によるクーデター計画。<br />十月事件(1931)：再度のクーデター計画。前月(９月)には満州事変が勃発しており、これに呼応<br />　　　　　　　　　　　して軍部政権の樹立を目指したもの。<br />血盟団事件(1932)：井上日昭を中心とする右翼結社・血盟団によるテロ。井上準之助(前蔵相)・<br />　　　　　　　　　　　団琢磨(三井理事長)らが暗殺。<br /><br />そして、1932年５月15日、<br />海軍青年将校や右翼結社・愛郷塾のメンバーが首相官邸などを遅い、<br />犬養毅首相を暗殺しました。<br />五・一五事件です。<br /><br />この事態に、元老・西園寺公望は政党内閣の継続は困難であると判断、<br />海軍長老で穏健派の斉藤実(まこと)を首相に推挙して、<br />軍部も政党も協力した挙国一致内閣の創設を指示、<br />ここに「憲政の常道」は終わりを迎えました。<br />西園寺の意図は、軍部の発言力をぎりぎりのところで押さえ、<br />頃合いを見計らって政党内閣を戻そうというところにあったようです。<br />(実際、政党からも鳩山一郎文相・高橋是清蔵相などが入閣しています)<br />しかし、政党の影響力は次第に低下し、復活することはありませんでした。<br /><br />さて、このように政党内閣が崩壊する過程において、<br />国民がテロやクーデターを支持したという悲しい事実から、<br />目を背けることはできません。<br />五・一五事件の首謀者に対する裁判では、減刑嘆願運動も起っています。<br />政党があまりに未熟だったのは事実です。<br />しかし、政党内閣は始まったばかりであり、<br />これから日本の社会に根づかせていくべきものでした。<br /><br />民主政治は時に選択を誤ることがあります。<br />しかし、誤ってもやり直すことができるのが、民主政治の特色です。<br />不満を言う前に、あきらめる前に、<br />次の選択を誤らないように、一人一人が真剣に考えること、<br />それこそが今、国民に求められています。<br />]]></description>
<guid isPermaLink="true">http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14878.html</guid>
<pubDate>Mon, 17 May 2010 00:50:00 -0000</pubDate>
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<title>あの頃に似ている２</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14808.html</link>
<description><![CDATA[前回からの続きで、<br />第２次護憲運動の実相について見ていきたいと思います。<br /><br />1921年11月に原敬首相が暗殺された後、<br />高橋是清が後継を務めましたが、立憲政友会の内部対立から長続きせず、<br />海軍大将の加藤友三郎、次いで同じく海軍大将の山本権兵衛が、<br />政党の協力を得ながら内閣を組閣しました。<br />(歴史的に、「中間内閣」と呼ばれています)<br /><br />転機となったのは、1923年９月１日、首都圏を襲った関東大震災です。<br />その年末に混乱が続く中で発生した、<br />虎ノ門事件(後に昭和天皇となる摂政宮の狙撃未遂事件)の責任を取って、<br />山本権兵衛首相が辞任すると、後任に清浦奎吾が推挙されました。<br />清浦は元老・山県有朋の側近で、<br />外相・陸相・海相以外の大臣が貴族院議員で固められたことから、<br />時ならぬ「超然主義」内閣の出現に批判が高まりました。<br /><br />＊参考　貴族院<br />戦前の大日本帝国憲法下では、帝国議会は衆議院と貴族院の二院制がとられた。貴族院は上院にあたり、皇族・華族・勅撰議員・多額納税議員で構成された。戦後、日本国憲法において廃止され、参議院がこれに代わる。衆議院を通過した法案をしばしば否決し、「皇室の藩屏」とも呼ばれた。<br /><br />＊参考　超然主義<br />内閣は議会や政党の意向に左右されないとする立場のこと。1889年２月12日、憲法発布を記念した翌日の式典において、時の黒田清隆首相が表明して、板垣退助の自由党ら民権派との対決姿勢を明確にした。しかし、衆議院を通過しなければ予算が成立しないことから、内閣と政党はしだいに接近することになる。清浦内閣は多分に時代錯誤的なものであり、「特権内閣」と批判された。<br /><br />憲政会の加藤高明・立憲政友会の高橋是清・革新倶楽部の犬養毅は、<br />一致団結して清浦内閣の打倒と政党内閣の実現を目指すことで合意します。<br />護憲三派の結成です。<br />しかし、政友会内部には床次竹二郎ら清浦内閣を支持する者も多数あり、<br />彼らが政友本党を結成したため、立憲政友会は分裂してしまいました。<br />(議員の数はほぼ半々で、まさに分裂です)<br />床次らの動きは、政権にすり寄ろうとする姿勢がにじみでていました。<br />また、護憲三派の内部においても、<br />憲政会と立憲政友会とでは政策面で大きな隔たりがあり、<br />主導権争いに腐心するという有り様でした。<br />どの勢力も次の総選挙で議席を増やすことにしか関心がなかったのです。<br /><br />そうした権力闘争の側面を、国民は敏感に察したのでしょう。<br />護憲三派による第２次護憲運動は、<br />大正時代の初めに展開された第１次護憲運動とは違って、<br />国民的な大きな支持を得ることはありませんでした。<br /><br />＊参考　第１次護憲運動<br />1912年12月、辞任した西園寺公望に代わって、内大臣(天皇の補佐役)の任にあった桂太郎が首相となり、出身の長州閥・陸軍閥を中心に組閣を行うと、1885年の内閣制度発足以来の原則である宮中・府中(行政府)の別を犯すとの批判が起こり、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅を中心に、「憲政擁護・閥族打破」をスローガンとする第１次護憲運動が展開された。桂は天皇の詔勅や議会の停止で事態を乗り切ろうとするが、民衆が議事堂を取り囲むなど大運動となり、桂内閣はわずか53日で退陣した。これを大正政変と言う。政党が国民と手を結んでいた点で、第２次護憲運動とは異なる。<br /><br />1924年５月に行われた総選挙は、<br />「普選断行・貴族院改革・行財政整理」を掲げる護憲三派が勝利しました。<br />(ただし、議席を伸ばしたのは憲政会のみで、<br />立憲政友会は分裂騒動が敬遠されて議席を減らし、<br />革新倶楽部も少数政党の悲哀で埋没し、伸び悩んでいます)<br />この結果を受け、元老・西園寺公望は<br />「憲政の常道」に従って憲政会総裁・加藤高明を首相に推挙、<br />護憲三派内閣が発足したのです。<br />(元老の存在や「憲政の常道」が〈慣習〉にすぎなかったことは前回のブログを参照)<br /><br />加藤高明内閣は公約どおり、<br />1925年に普通選挙法を成立させ、選挙権の納税資格を撤廃します。<br />しかし同時に、国民の自由を制限する弾圧法令として悪名の高い、<br />治安維持法も制定しました。<br />日本共産党の活動が活発化する中で、<br />内閣は普通選挙の実施による無産政党の議会進出を恐れ、<br />社会主義・共産主義に対する取り締まりを強化したのでした。<br /><br />＊日本共産党と無産政党<br />日本共産党は、1922年にコミンテルン(モスクワ国際共産党)の指導下に結成。しかし、戦前は非合法であった(合法的に認められるのは戦後のこと)。そこで、労働運動や農民運動を母体に、普通選挙における議席獲得を目指して多くの無産政党が結成され、日本共産党は半ば公然と支援していた。<br /><br />普通選挙法と治安維持法は、<br />よく〈アメとムチ〉の関係として捉えられます。<br />しかし、護憲三派が選挙権は国民の権利と本気で考えて、<br />納税資格を撤廃したのかについては再考の余地があるでしょう。<br />原敬首相が、普通選挙の実施に消極的だったことを思い出して下さい。<br />(前回のブログ参照)<br />法案の審議で若槻礼次郎内相は、「革命の安全弁」と答弁しています。<br />要は不満のガス抜きのように考えられていたのです。<br />その姿勢は、立憲政友会総裁・高橋是清の次の言葉に現れています。<br />「民度から云えば、尚ほ早いけれども、今どうしても政治的に解決して、社会問題が起らぬやうにしなければならぬ」<br />(注：高橋是清は原敬の後継総裁です)<br /><br />最初から国民と真正面に向き合っていない政党内閣でしたから、<br />国民の支持を失うのもあっと言う間でした。<br />次回は五・一五事件で「憲政の常道」が終焉するまでを見たいと思います。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 10 May 2010 00:45:00 -0000</pubDate>
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<title>あの頃に似ている</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14777.html</link>
<description><![CDATA[今でも時おり政治家(主に野党の)が用いますが、<br />「憲政の常道」という言葉を聞いたことがあるでしょうか？<br />大日本帝国憲法下において，議会(衆議院)で多数の議席を占める政党が<br />内閣を組閣すべきであるとする慣例のことです。<br />(この後には、「第一党が総辞職した後は第二党に政権交代する」と続きます。<br />だから、政権が行き詰まると野党議員がさかんに言うわけです)<br /><br />主権在君の大日本帝国憲法では政党内閣は保障されておらず、<br />あくまでも〈慣例〉にすぎませんでした。<br />ですが、大正時代から昭和初期にかけて、<br />国民の期待を背景に政党内閣が続いたことがありました。<br />しかし、政党はその期待に応えることができず、<br />自ら首を絞める結果となってしまったのです。<br /><br />参考<br />現行の日本国憲法では、第67条に「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」，第68に「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は国会議員の中から選ばれなければならない」とあり、議院内閣制が明確に規定されている。国会で内閣首班(首相)を指名し、国務大臣の過半数を国会議員から任命するのであるから、政党内閣は〈慣例〉ではなく〈制度〉的に保証されているということになる。<br /><br />日本初の本格的政党内閣とされるのが、原敬内閣です。<br />1918年９月、陸軍大将の寺内正毅内閣が米騒動の責任をとって総辞職すると、<br />大正デモクラシーの風潮の中で沸き上がる民衆のパワーを痛感した、<br />山県有朋ら元老勢力は、立憲政友会総裁の原敬を後継首班に指名しました。<br />衆議院に議席を持つ初めての首相であり、<br />外相・陸相・海相以外は立憲政友会の党員で占められたことが、<br />日本初の本格的政党内閣と呼ばれるゆえんです。<br />原敬は爵位の受け取りを固辞し続けたことから「平民宰相」と呼ばれ、<br />国民の人気もあり、元老らは彼に民衆運動の鎮静化を期待したのでした。<br /><br />参考　元老<br />戦前に天皇の非公式の(憲法に規定されない)最高顧問として、首班の推挙などを行った。伊藤博文・山県有朋など、明治維新の功労者を中心に９人が元老となっている。「憲政の常道」とは、つまりは元老が第１党のリーダーを首班として天皇に推挙する〈慣例〉であった。<br />元老には内閣を影で操るキングメーカーのような負のイメージがつきまとうが、天皇の持つ強力な君主権が暴発するのを防ぐ役割を果たしていたとも考えられる。その証拠に、最後の元老である西園寺公望が亡くなったのが1940年、翌1941年に抑えなくなった陸軍大将の東条英機内閣はアメリカに宣戦布告してアジア太平洋戦争へと突入していく。<br /><br />参考　作られた「平民宰相」のイメージ<br />原敬は政治家の駆け出しのころ、逆に自分から爵位を求めて、伊藤博文や井上馨に取り次ぎを請うている。爵位の授与を固辞するようになったのは、党の幹部としての地位が確立してからのことであった。「平民宰相」とは、原敬が国民の人気を得るために自身で作り出したイメージでもあったのである。<br /><br />国民の期待を背負って首相となった原敬ですが、<br />100％その期待に添うことはありませんでした。<br />普通選挙(納税資格の撤廃)の要求に対しては、<br />時期尚早であると反対し、納税資格の引き下げにとどめています。<br />(死後に公表された『原敬日記』には、<br />「階級制度打破と云ふが如き、現在の社会組織に向て打撃を試みんとする趣旨より、納税資格を撤廃すと云ふが如きは、実に危険極る次第にて」<br />と記されています。民衆運動の高揚を警戒していたのです)<br /><br />一方で、党勢拡大のため地方鉄道の建設を積極的に推進し、<br />その露骨な利益誘導の手法は「我田引鉄」と揶揄されました。<br />例えば、原敬の地元・岩手県には、<br />盛岡駅-宮古駅間を結ぶ山田線というローカル線があります。<br />１日４往復しか列車がないという、全国屈指の閑散区間です。<br />(こうした赤字ローカル線が国鉄の経営を圧迫し、<br />現在のJR各社に分割民営化されたのは1987年のことです)<br />この時、議会での審議において、<br />「猿でも乗せるつもりか」という野党憲政会の議員の質問に対して、<br />首相は「鉄道規則によれば猿は乗せないことになっております」と、<br />平然と答弁したというエピソードが残っています。<br /><br />このような国民に背を向けた政策に、<br />利権絡みの汚職事件なども重なって、<br />原敬内閣は支持を失っていきます。<br />折から、第１次世界大戦の終結とともに日本経済は失速し、<br />戦後恐慌(1920)が発生して不況へと突入していました。<br />こうした中で、1921年11月４日、<br />原敬首相は東京駅で暴漢に襲われ、65歳の生涯の幕を閉じるのです。<br />(刺殺された現在の東京駅丸の内南口の地点には、<br />タイルにプレートがはめ込まれています)<br /><br />今回、戦前に政党内閣が成立していた時代を取り上げたのは、<br />現在とあまりにも状況が似ているからです。<br />政党が国民の期待に応えるには、あまりにも未熟だった。<br />そう言ってしまえば、そうなのかもしれません。<br />しかし、ことさらに問題点をあげつらい、不満をぶちまける前に、<br />長い目で見守り、政権を担える政党へと育てていくことも、<br />有権者の責務でしょう。<br />期待を裏切られた途端にバッシングの嵐というのでは、<br />無責任そのものです。<br /><br />戦前、｢憲政の常道｣が終焉したその先には、<br />軍部ファシズム政権の成立と戦争への道がありました。<br />次回は、昭和初期の第２次護憲運動から五・一五事件への流れを<br />追っていきたいと思います。<br />]]></description>
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<pubDate>Thu, 06 May 2010 00:22:00 -0000</pubDate>
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<title>徳之島の戦後</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14679.html</link>
<description><![CDATA[いま、普天間飛行場(基地)の移設問題で揺れる徳之島は、<br />奄美群島に属する、面積約250㎢・人口約２万6,000人の島です。<br />亜熱帯性の気候・植生・生態系は沖縄諸島と共通し、<br />言語的にも琉球方言に近く沖縄文化圏に属します。<br />(地図を見れば分かりますが、九州よりも沖縄の方が断然近いです。<br />明治初期に行われた廃藩置県によって鹿児島県に編入されたため、<br />行政的に沖縄と分断されてしまったにすぎません)<br /><br />沖縄の戦後が、<br />〈アメリカ〉と〈アメリカに寄り添う日本〉に翻弄されてきたように、<br />いや、それ以上に、徳之島を含む奄美は振り回されてきました。<br /><br />1946年２月２日、<br />北緯30度以南の奄美群島の施政権が、<br />GHQ占領下の日本政府からアメリカ軍に移管されました。<br />アメリカはもともと、奄美を沖縄の一部と見なしていたようです。<br />しかし、それは奄美の人々の意向を無視して行われたものでした。<br /><br />日本本土と切り離された奄美は経済的に大打撃を受けます。<br />出稼ぎなどの渡航は制限され、<br />商品(主に黒砂糖)の出荷も輸出扱いとされ関税がかけられました。<br />一方で、沖縄のように基地産業で潤うことがありませんでしたから、<br />奄美の経済は取り残されて疲弊し、<br />仕事を求めて沖縄に３万人近くの人口が流出したとされます。<br /><br />それゆえ、本土復帰への思いは沖縄の人たちよりも強く、<br />復帰を求める署名運動には、99％を超える署名が集まったほどです。<br />(移設反対の集会に徳之島島民の半数以上、<br />約１万5,000人が集まった団結力は、<br />このあたりにルーツがあるのかもしれません)<br />しかし、その願いもむなしく<br />1951年、９月８日に調印されたサンフランシスコ平和条約では、<br />次のように記されました。<br /><br />「第３条　日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくとする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び寿民に対して、行政、立法、及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」<br /><br />沖縄・奄美・小笠原は、日本の潜在主権が確認されつつも、<br />引き続きアメリカ軍の統治下に置かれることになったのです。<br /><br />注　信託統治制度<br />旧植民地などの独立を支援するため、国連の信託を受けた国が非独立地域を統治する制度。監督機関として国連に信託統治理事会が置かれているが、1994年のパラオ独立を最後に任務の完了と活動の停止が宣言された。なお、アメリカは沖縄・奄美・小笠原を信託統治する旨の提案を、国連にすることはなかった。<br /><br />ところで、アメリカが沖縄を本土から切り離して直接軍政を敷いたのは、<br />東アジアにおける戦略的な重要性から基地を置くためでした。<br />(<a title="11月16日付ブログ" href="http://aizawa.passnaviblog.jp/2009/11/16/" target="_blank">11月16日付ブログ</a>参照)<br />奄美にそのような価値はほとんどありません。<br />(このことを鳩山首相が知らないはずはないのですが)<br />そこで、復帰運動に手を焼いていたアメリカは、<br />早々と1953年12月25日に<br />「クリスマス・プレゼント」と称して日本に返還したのです。<br /><br />注記<br />アメリカには、琉球人は日本人によって虐げられてきた少数民族であるとの認識があり、占領開始当初は日本から独立させるとの意図もあったようである(だからこそ同じ琉球文化圏に属する奄美を加えたと考えられる)。しかし、冷戦の激化とともに軍事目的が最優先とされるようになった。<br /><br />しかし、悲運の歴史はまだ終わりません。<br />本土復帰により、沖縄に出稼ぎに行っていた人たちは<br />「外国人」扱いとなって職を追われてしまったのです。<br />アメリカの思惑による一方的な返還は、奄美の人たちにとって<br />「クリスマス・プレゼント」でも何でもなかったのでした。<br /><br />徳之島の人たちの怒りは、基地そのものというよりも、<br />また再び自分たちの意向を無視して、<br />決めようとしている国に対して向けられているように思えます。<br />だとすれば、政府として第一にすべきことは、<br />きちんと島の人たちと話し合い、<br />日米安保体制や基地の必要性について理解を求めることであるはずです。<br /><br />それとともに、本土に住む人たちも、<br />戦後日本の平和と経済的繁栄が何によってもたらされたのか、<br />その間に沖縄や奄美の人たちにどれだけ犠牲を強いてきたのかを、<br />もっと知る必要があるように思います。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 26 Apr 2010 00:30:00 -0000</pubDate>
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<title>人口が増える日本一小さな村</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14605.html</link>
<description><![CDATA[先月、日本一小さな市町村である富山県中新川郡舟橋村が、<br />人口3,000人を突破したというニュースが報道をにぎわせました。<br /><br />富山県の中部、富山市に西境を接する舟橋村は、<br />平成の大合併が全国各地で進行する中でも自立を貫き、<br />2006年に日本で最も面積の小さな地方自治体となります(34.7㎢)。<br />しかし、富山市の市街地まで車で約20分、電車で１本という<br />絶好の立地条件から宅地化が進み、<br />1990年には1,400人程度であった人口が、<br />20年で倍以上に増加したのです。<br />また、14歳以下の年少人口(幼年人口)の割合も22.7％に達していて<br />全国一を誇ります(2005年・日本全体では13.6％)。<br /><br />1980年代までは過疎化の危機にあった舟橋村が<br />1990年代から人口増加に転じたきっかけは、<br />「富山高岡広域都市計画」における<br />農地保全のための市街化調整地域としての指定が、<br />1998年に解除されたことです。<br />これを機に農地から住宅地への転用が進みます。<br />舟橋村がホームページで提供している統計資料によると、<br />田地が平成４(1992)年の224haから平成19(2007)年には182ha、<br />宅地が平成４(1992)年の36haから平成19(2007)年には50ha、<br />となっています。<br />富山市の中心部にも近い、緑も残されているという<br />抜群の生活環境によって、転入が相次いでいるのです。<br /><br />しかし、好条件にあぐらをかいて、<br />行政が何もしてこなかったわけではありません。<br />1998年、舟橋村は地域活性化策として、<br />越中舟橋駅と一体化して建設した村立図書館をオープンします。<br />３階建て、延べ面積1,518㎢、蔵書数５万点以上、<br />駅の改札口を出ると目の前に図書館の入り口があり、<br />登録者数は約11,000人、年間貸し出し数は約150,000冊、<br />住民１人あたりの貸し出し数は50冊以上で日本一です。<br />最初に述べたとおり、舟橋村の人口は3,000人ですから、<br />村外からの利用者も多く、図書館はまさに「村の顔」となっています。<br /><br />市街化調整地域の指定が解除されると、<br />舟橋村は居住者の移転を図るべく、<br />1990年に「ふるさと環境整備計画」を策定して、<br />駅舎と図書館の複合施設の建設を決定しました。<br />村の玄関口にあたる駅に図書館を併設することで、<br />住民の利便性を図ろうとしたのです。<br />現在、越中舟橋駅にはパーク・アンド・ライド方式に基づいて、<br />約250台の無料駐車場が設置されています。<br /><br />＊ パーク・アンド・ライド方式<br />自宅から駅までは自家用車で向かい、その先は電車・バスなどの公共交通機関を利用して移動する交通システムのこと。もともとは都心部での渋滞緩和や大気汚染の軽減を図るためアメリカで行われ始めたが、最近では利便性という観点から地方の駅・空港などに駐車場を設置するケースが多い。<br /><br />図書館としては、ただ本を貸し出すというだけでなく、<br />誰でも自由にゆっくりと時間を過ごせる滞在型の図書館を目指しました。<br />１Fフロアには広いスペースが用意され、<br />ボランティアによって紙芝居や読書会が行われるなど、<br />子育て世代には欠かせない場となっています。<br />また、村の文化や歴史に関する資料もそろえ、<br />集会や催し物の開催にも幅広く利用されています。<br />図書館は住民たちの生活ネットワークの拠点となっているのです。<br /><br />(図書館が住民の中核的施設となっている点では、<br />市町村合併を拒否する宣言をして注目を集める福島県矢祭町が、<br />2006年にオープンした矢祭もったいない図書館も同様です。<br /><a title="社会科学編" href="http://www.obunsha.co.jp/shoshi/symfony/show/code/030424/side/" target="_blank">社会科学編</a> p.78コラム参照)<br /><br />2010年３月31日をもって新合併特例法の期限が終了し、<br />国主導による「平成の大合併」は一段落つきました。<br />現在、全国の自治体数は1,727です。<br />新合併特例法が施行された1999年４月１日の時点では3,229でしたから、<br />ほぼ半減したことになります。<br />(ただし、国が目標としていた1,000には遠く及んでいません)<br /><br />市町村合併を推進した国の言い分は、<br />行政サービスの向上や財政の健全化には<br />自治体の規模の拡大が不可欠である、というものでした。<br />(本音は地方交付税交付金の削減ですが)<br />しかし、舟橋村や矢祭町のように、<br />規模の小ささを逆に生かして元気な自治体もあります。<br />一方で、1999年４月１日に誕生して<br />「平成の大合併」の先駆けとなった兵庫県篠山市では、<br />合併特例債を利用した「箱モノ」建設のツケにより、<br />現在でも20億円を超える借金に苦しんでいます。<br /><br />国主導で地方分権を進めるというのが、もともと捩じれた話だったのです。<br />日本国憲法第92条は、<br />①団体自治(地方自治は国から独立した団体によって行われる)と、<br />②住民自治(地方自治は住民の意思と責任に基づいて行われる)からなる<br />「地方自治の本旨」を定めています。<br />その精神を生かすのは、地方自治体と住民にほかなりません。<br />舟橋村の実践はそれを如実に示しています。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 19 Apr 2010 01:25:00 -0000</pubDate>
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<title>参考書で〈正しいこと〉を伝えるために</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14502.html</link>
<description><![CDATA[僕がまだ駆け出しの予備校講師だったころ、<br />誰もがその名を知る英語の先生が、<br />猿の着ぐるみを着て授業をされている姿を見て、<br />ああ、何て〈正しいこと〉をされているんだ、<br />僕もこういう風にためらいなく〈正しいこと〉できる講師になりたいと<br />心に刻んだことを今でも覚えています。<br /><br />その先生の英語の実力は、<br />とある試験で最高得点を取ったことで証明されています。<br />授業は基礎を中心に、だからといって内容を簡単にするというのではなく、<br />本当の基礎、高みに到達するために必要な基礎を徹底されていて、<br />生徒から絶大な支持を得ていました。<br />(出来ない子にこそきちんと基礎を教えたいと決意して、<br />あえて基礎クラスを担当していたと僕は後に聞きました)<br />そういう真の実力の持ち主が、<br />猿の着ぐるみを来て授業をされているのです。<br /><br />僕は、それは一つの覚悟なのだと思います。<br />自分が〈正しいこと〉をしているという自信があるならば、<br />それを多くの人に伝えるために最大限の努力をすべきである。<br />着ぐるみに気が引かれて、それで授業を受けてくれてもかまわない。<br />パフォーマンスとは本来、<br />自分が〈正しい〉と信じることを伝えるための、<br />きわめて〈正しい〉行為なのです。<br />(ただし、そこに〈正しい〉という信念を欠いていると、<br />他人の注目を集めたいだけの、さもしいふるまいとなります。<br />誰とは言いませんが口先だけで何もしない政治家のように)<br /><br />以前、高田明穂先生の『新釈現代文』(ちくま学芸文庫)を取り上げて、<br />僕もいつか〈正しいこと〉だけを書いて受験生に受け入れられる<br />参考書を書きたいと述べたことがあります。<br />(<a title="11月9日付ブログ" href="http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/12642.html" target="_blank">11月９日付ブログ</a>参照)<br />その想いは今も変わりません。僕の人生の最終目標です。<br />しかし一方で、〈正しいこと〉「だけ」にこだわる必要もないとも、<br />ずっと思っていました。<br /><br />例えば、レモンイエローの目立つ表紙で、<br />人気漫画家の萌え系のイラストが目に飛び込んできて、<br />「点数が面白いほどとれる」なんてタイトルの参考書を、<br />僕は絶対に買おうとは思いませんが、<br />それで手に取ってくれる受験生がいるのならば、<br />良いではないですか。<br />いや、〈正しいこと〉をしているという自信があればこそ、<br />覚悟を決めてそういう作りができるのだと思います。<br />(ちなみに、1980年代に、<br />当時26歳で京都大学助手だった浅田彰さんの著わした『構造と力』が、<br />現代思想の最先端を紹介した難解な書にもかかわらず、<br />レモンイエローの表紙に引かれて大ベストセラーになったことがあります。<br />この色はなぜか購買意欲をそそるのです。<br />おそらく『構造と力』の影響で表紙を黄色にしたのだろうと<br />僕はにらんでいます)<br /><br />ということで、旺文社のページなので大きな声で言えませんが、<br />他社からそういう本を出しました。<br />見かけは見かけとして、しかし、中身に妥協はありません。<br />自分の持てる力を出し切った自信作です。<br />センター倫理で高得点を目指す受験生はもちろん、<br />哲学や宗教について勉強したい大学生・受験生の方にも、<br />ぜひ手に取っていただけたらと思います。<br /><br />ただし、高田明穂先生の言葉を借りて、こう言っておきましょう。<br />「どうぞこの本は、二度読んで下さい。どんな書物でもそうですが、二度読んではじめて読んだと言えるのです。」<br /><br />追記<br />古代ギリシアの哲学者ソクラテス(前469ころ〜前399)は、<br />真理の探究のためアテネの市民との対話という方法を選びました。<br />対話(ディアロゴス)とはもともと、<br />真理(ロゴス)を共有する(ディア)という意味です。<br />互いに考え、語り合うことで、真理へと近付いていく。<br />その過程こそが大事であると考えたからこそ、<br />ソクラテスは対話という哲学の形式にこだわったのです。<br />(逆に、書かれた言葉など絵画のようなもので、<br />せいぜい忘れっぽくなった人の記憶のよすがにしかならないと、<br />弟子のプラトンは対話編『パイドロス』で師匠に言わせています)<br /><br />そもそも私たちは物事を考えるとき、<br />心の中で自分と対話、つまり、自問自答をしています。<br />しかし、独りで考えていると、<br />やはり独断や偏見から逃れることができません。<br />そこで、心の内なる対話の相手を、思いきって言語化してみる。<br />すると、新たな視点や思考の道筋が見えてくることがあります。<br />そして、それは読者と真理を共有するためにも有効な方法でしょう。<br /><br />生徒の対話形式という書き方も悪くはないなと思っています。<br /><br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 12 Apr 2010 00:40:00 -0000</pubDate>
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<title>核密約問題はこの国のあり方の本質に関わる問題である</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14452.html</link>
<description><![CDATA[先週はお休みをいただいておりました。<br />今回は、前々回に見た戦後の日米安保体制の推移を踏まえて、<br />核密約問題に関する論点を整理してみたいと思います。<br /><br />まず、外務省の調査結果と有識者委員会の見解は以下のとおりです。<br />①核を搭載した艦船などの寄港・通過<br />　&rarr;認識の不一致を黙認していたという点で「広義の密約」が存在した。<br />②朝鮮有事における米軍の自由出撃<br />　&rarr;根拠となる議事録の写しが発見され、日本側も密約と認識していた。<br />③返還後の沖縄への核再持ち込み<br />　&rarr;外務省は何ら知らず、密約が存在したとは言えない。<br />④沖縄返還時の原状回復費用の肩代わり<br />　&rarr;非公表扱いの合意書が存在し、「広義の密約」があったと言える。<br />(戦後の沖縄の歴史と日米関係において置かれた立場に関しては、<br />2009年<a title="11月16日付ブログ" href="http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/12689.html" target="_blank">11月16日付</a>および<a title="11月24日付ブログ" href="http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/12747.html" target="_blank">11月24日付</a>ブログをお読み下さい)<br /><br />どれも重要な問題ですが、<br />ここでは、①の核密約問題について、さらに踏み込んで見てみましょう。<br />1960年の安保改訂において、<br />事前協議制が盛り込まれたことは前々回お話したとおりです。<br />その際、当時の藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日大使との間で交わされた、<br />討議記録の写しが今回の調査で発見されました。<br />(ただし原本は発見されていません。<br />今回の調査でも発見されなかった重要文書は多く、<br />有識者委員会も「不自然な欠落」と指摘しています)<br /><br />その討議記録において、核密約に関わる内容は次の２点です。<br />(1)米軍の「装備における重要な変更」は日本政府との事前協議の主題とする。<br />(2)「装備における重要な変更」は「核兵器の日本への持ち込み」を意味する。<br />これだけ読めば核持ち込みは事前協議の対象とされたようにも思えますが、<br />アメリカ側は、<br />「核持ち込み」とは日本国内の米軍基地に核兵器を常時配備することであって、<br />核兵器を搭載した艦船などの寄港・通過は「核持ち込み」にあたらない、<br />だから、事前協議の必要はないと考えていました。<br /><br />アメリカはNCND政策と言って、<br />核兵器がどこに配備されているかについて肯定も否定もしない<br />という方針をとってきました。<br />確かに、核のありかが分かってしまったら抑止力は働きませんから、<br />このスタンスは妥当なものです。<br />そして、この政策をとる限り事前協議などできるはずがなかったのです。<br /><br />日本も、アメリカ側のこの解釈には気づいていたようです。<br />しかし、日本では世界唯一の被爆国という意識から国民の反核感情が強く、<br />それゆえ事前協議の対象とすれば艦船が寄港・通過できなくなり、<br />日米安保体制そのものが成り立たなくなる恐れがありました。<br />(裏返せば、日米安保体制は核抑止力を前提に成り立っているということです)<br /><br />そこで、日米両国はこの問題を深追いせず、<br />あいまいなままにしておくことにしました。<br />こうして形成されたのが「広義の密約」です。<br />有識者委員会の見解は、次のように記しています。<br /><br />「核搭載艦船は事前協議なしに日本に寄港するかもしれず、また日本政府はそうなることを表向き否定するかもしれないが、互いに抗議しないという「暗黙の合意」が安保改訂時にできあがりつつあったと見てよい」<br /><br />その後、1963年４月に行われた、<br />大平正芳外相とライシャワー駐日大使(ともに当時)の会談において、<br />一時立ち寄りは「核持ち込み」に当たらないとする米側の解釈を伝えられ、<br />実際に事前協議なしに寄港が行われている可能性が高いことを知ります。<br />しかし、このときも日米関係の維持を優先して異議を唱えず、<br />一方で、政府は寄港も事前協議の対象であるとする国会答弁を繰り返しました。<br />こうして「広義の密約」は1960年代に固まったのです。<br /><br />さて、この核密約問題に関して、<br />僕は２つの点で考えるべきことがあると思います。<br /><br />第一に、核抑止力の有効性についてです。<br />僕は、核保有国が一握りの国に限られていること、<br />インドとパキスタンの対立(カシミール紛争)に見られるとおり、<br />核兵器の保有がむしろ軍事衝突を誘発していることなどから、<br />核抑止力に疑問を持っています。<br />(<a title="小論文時事テーマとキーワード（社会科学編）" href="http://www.obunsha.co.jp/shoshi/symfony/show/code/030424/side/CategoryKokoSankosyo01" target="_blank">社会科学編</a>　「12 冷戦後の世界」参照)<br /><br />ですが、かりに核抑止力を認める立場だとしても、<br />(先に述べたように、今回の調査結果は日米安保体制が<br />核抑止力を前提としていることを図らずも明らかにしました)<br />密約の存在は核抑止の効力に重大な影響を及ぼすと考えられます。<br />というのも、口先で核持ち込みは許さないと言っておきながら、<br />裏ではアメリカの「核の傘」に頼っていると分かってしまえば、<br />世界中の国から疑心暗鬼の目で見られても仕方がないからです。<br />信用を失うことほど安全保障上で問題となることはありません。<br />だから、今後も核抑止力を前提とした日米安保体制を維持していくのならば、<br />「非核2.5原則」など日米間の明確な合意が必要でしょう。<br /><br />注　非核2.5原則<br />1967年、佐藤栄作首相(当時)は衆院予算委員会において、<br />核を「作らず・持たず・持ち込ませ(さ)ず」とする非核３原則を表明した。<br />これに対して、寄港・通過は認めようというのが非核2.5原則である。<br /><br />第二に、日米安保体制と国民感情との関係です。<br />日米安保体制の維持を国民感情に優先させる、<br />それが、「広義の密約」を黙認してきた日本政府の立場でした。<br />核密約問題の本質は、アメリカに寄り添って生きてきた戦後の日本が、<br />国民と真正面から向き合おうとしてこなかったこと、<br />国民と合意を形成する努力を怠ってきたことにあると思います。<br />いま、普天間飛行場の移設問題で、<br />政権交代したはずの鳩山由紀夫内閣は、<br />沖縄県民の意向を裏切る決定をしようとしています。<br />沖縄の基地に戦略的な重要性があるならば、なぜそれを沖縄県民に問い、<br />何が出来て何が出来ないのかを議論しようとしないのか。<br />核密約問題は、核の問題ではなくこの国のあり方の問題なのです。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 05 Apr 2010 01:00:00 -0000</pubDate>
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<title>人が人を想う気持ちについて</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14295.html</link>
<description><![CDATA[「逢いたくなったらまた来て下さい。<br />　私たちはいつでもここにいます」<br />舞台が終わった後、劇団の中心的な役者である西川浩幸さんは、<br />決まってこう挨拶します。<br />その言葉に誘われるかのように、季節の変わり目ごとに行われる<br />年４〜５回の演劇集団キャラメルボックスの公演に、僕は必ず足を運びます。<br />それは、僕の心のうちにもちゃんとある「人が人を想う気持ち」を、<br />確かめるためなのかもしれません。<br /><br />僕がもっとも心に残っている作品が、<br />いしいしんじさん原作の『トリツカレ男』です(原作は新潮文庫刊)。<br /><br />外国語、オペラ、昆虫採集、三段跳び・・・<br />次から次へと取り憑かれたように夢中になるジュゼッペのことを、<br />町の人は「トリツカレ男」と呼びます。<br />ジュゼッペが次に取り憑かれたのは、<br />寒い異国からやってきた無口な風船売りの少女ペチカでした。<br />ペチカは、お母さんの病気の治療のために異国の地で不馴れな生活を送り、<br />町の人とも言葉が上手く通じず、心を閉ざしていました。<br /><br />ジュゼッペは、ペチカに笑顔を取り戻してあげたくて、<br />これまで取り憑かれて身に付けてきた技のすべてを尽くします。<br />医者になりすまし、歌の力でお母さんの病気も直してしまいます。<br />しだいにペチカは心を開き、笑顔を見せるようになりました。<br />しかし、ペチカの笑顔から「くすみ」がどうしても取れません。<br />それは、婚約者であるタタン先生が心に棲みついていたからでした。<br /><br />教え子であったペチカは、<br />タタン先生と結婚を約束してジュゼッペの住む町に来ました。<br />ところが、タタン先生はコーチを務めるアイスホッケー部の合宿中に、<br />雪山で事故に遭って亡くなってしまいます。<br />ロープウェーに取り残された子どもたちを救うため、<br />自分が犠牲になって飛び下りたのでした。<br /><br />ぺチカの部屋の中がタタン先生の写真で埋め尽くされていることを<br />知ったジュゼッペは、自分がタタン先生になることを決意します。<br />仮面をつけて変装し、<br />夕方遅くまで子どもたちにアイスホッケーを教え、<br />そして夜には梯子から窓ごしにペチカに話しかけました。<br />無理がたたって、ジュゼッペは身体をこわしてしまいます。<br />しかし、ジュゼッペはペチカの許を訪れることを止めませんでした。<br /><br />ある晩、ペチカは満面の笑顔で、<br />ジュゼッペという新しい友達ができたと、<br />タタン先生に変装したジュゼッペに、それとは知らず話します。<br />ジュゼッペは、一抹の寂しさを感じながらも、<br />ペチカに本当の笑顔が戻るならそれで良いと、<br />ペチカの部屋に通い続けました。<br /><br />ペチカのお母さんの病気が治って、故郷に帰る日のことです。<br />ジュゼッペはその日も病身をおしてペチカの部屋に向かいました。<br />梯子を上り、いつものように窓に呼びかけると、<br />そこに立っていたのはタタン先生でした。<br /><br />タタン先生は子どもたちを助けるのに精いっぱいで、<br />ロープウェーから飛び下りたときにペチカのことを想ってやれなかったことを悔やみ、<br />魂がこの世に取り残されていました。<br />ペチカの心のうちに棲みつく自分への想いをぬぐい去ってあげたい。<br />そう想っているところに現れたのが、ジュゼッペでした。<br />タタン先生の魂は、このトリツカレ男を見込んで、<br />ペチカの氷の心を溶かせようとしたのです。<br /><br />タタン先生はジュゼッペに感謝の言葉を述べ、こう言います。<br />「私はきみのからだ越しにたくさんのことをペチカにはなした。ペチカもはなしてくれたんだ。あのこがきみの話をしてくれたとき、ああ、もうほとんど大丈夫だ、と私にはわかった。ペチカにはちゃんと、この世にジュゼッペ、きみがいる。・・・ほんとうにありがとう、ジュゼッペ君。私はやっとこの世からいなくなる」<br />そして、タタン先生はジュゼッペに最後のお願いをします。<br />それは、自分がロープウェーから飛び下りたときにしてやれなかったこと、<br />ペチカの名を呼びながら梯子からまっさかさまに落ちることでした。<br /><br />(僕は今、こうやって書いているだけで涙が止まらなくなっています。<br />自分でも何を書いているのかよく分かりません。<br />かろうじてここまで読んでくれた方も、何のことやらとお思いでしょう。<br />しかし、です。<br />本当に伝えたい想いは、きちんと整理された言葉にならないものなのです。<br />そして、どんなに意味不明で支離滅裂であっても、<br />このことは書かなくてはならないと心がかき立てられて、<br />今回は核密約問題の続編という予定を置き去りにしたまま、<br />トリツカレたように書いています)<br /><br />ペチカは、帰りの駅のホームで、<br />この町で自分の身に訪れた幸運の全てが<br />ジュゼッペの計らいであったことを聞かされます。<br />そして、毎晩やってきたタタン先生のホッケーだこが、<br />左手にできていたことを思い出します。<br />タタン先生は右利きなのに、です。<br />ペチカは、ジュゼッペがタタン先生に変装していたことに気付きます。<br />そして、変装したタタン先生が自分に話しかけてくれた、<br />「私がトリツカレたのは、ホッケーではない。子どもたちだ。私の周りにいる素晴らしい人たちだ。<br />そして何より、君だ」<br />という言葉が、ジュゼッペ自身のものであったことに思い至ります。<br /><br />ペチカは、一目散に今晩もジュゼッペがタタン先生に変装して<br />来てくれているはずの自分の部屋に戻ると、<br />ジュゼッペは自分の名前を叫んで梯子から飛び下りているところでした。<br />ペチカはジュゼッペの背中をその腕でしっかりと抱きとめ、<br />二人は結ばれたのでした。<br />(僕はもうこの場面をDVDで何度も観てそのたびに号泣です)<br /><br />ここまで読んでいただいて大変申し訳ないのですが、<br />キャラメルボックスの魅力を、やはり言葉で伝えることはできません。<br />梶尾真治さん原作(朝日新聞出版)の、<br />クロノス・ジョウンターというタイムマシンに乗って、<br />過去に大切な人を救いに行くお話が、<br />『ミス・ダンデライオン』と『南十字星で』の２本立てて、<br />４月４日まで池袋サンシャイン劇場で上演されています。<br />ふだんの半分の60分という、<br />演劇初心者にも取っ付きやすい長さですので、<br />(逆に２本続けて観るとあまりの内容の濃さにキツイです)<br />「人が人を想う気持ち」を確かめにぜひ足を運んでみて下さい。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 22 Mar 2010 06:30:00 -0000</pubDate>
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<title>密約問題を考えるために日米安保体制の歴史を振り返る</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14214.html</link>
<description><![CDATA[1951年９月８日、<br />ソ連など東側諸国を排除した単独講和(片面講和)の形式で、<br />サンフランシスコ平和条約が日本と48か国との間で調印され、<br />戦争状態の終了と占領の終結が決まりました。<br /><br />その晩のことです。<br />主席全権であった吉田茂首相は、<br />サンフランシスコの郊外にあったアメリカ陸軍基地におもむき、<br />日米安全保障条約(旧安保条約)に単独で調印しました。<br />この時、吉田は同行した池田勇人蔵相(当時・後の首相)に向かって、<br />次のように語ったとされます。<br />「この条約はあまり評判がよくない。<br />君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」<br />この言葉は、戦後日本が西側陣営の一員として生きていく、<br />その責任を全て引き受ける吉田の覚悟を示すものでした。<br /><br />さて、旧安保条約はなぜ「評判がよくない」のか。<br />第１条にはこうあります。<br />「平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は許与し，アメリカ合衆国はこれを受諾する」<br />〈権利〉とだけあって、〈義務〉の語がないことに注目して下さい。<br />アメリカに、日本を防衛する義務はない。<br />日本が一方的にアメリカ軍の駐留権を認めて、<br />いざ戦争が始まったら、アメリカ軍は逃げ出す可能性もあったのです。<br /><br />このような、片務的な内容を承知で吉田がこの条約を結んだのは、<br />今こそ講和を果たし占領を終わらせる絶好の機会と考えたからです。<br />前年(1950年)の朝鮮戦争の開始を受けて、<br />アメリカは日本との講和の道を模索し始めていました。<br />一方で、吉田は講和における最大の懸案事項が<br />日本国内の米軍基地にあると考えていました。<br />冷戦が激化し、中国・朝鮮が分断されるという事態を前にして、<br />独立回復後の安全保障体制は喫緊の課題でした。<br />そこで、再軍備にかかる負担を軽減する方法として、<br />西側陣営の一員としてアメリカへの忠誠を誓い、<br />基地提供の見返りに安全保障を依存する道を吉田は選択したのです。<br /><br />単独で署名するという責任を吉田が一身に引き受けた結果、<br />日米安保体制の下で防衛費が抑制され、<br />また、平和条約でも多くの国が賠償請求権を放棄したことと相まって、<br />経済復興に力を入れることができたことは、<br />日本が高度成長を遂げた大きな要因の一つです。<br />(社会科学編「１．高度成長の時代」参照)<br />ですから、1951年の時点における吉田の決断は、<br />アメリカの「イエス・マン」との批判も聞こえつつも、<br />間違っていなかったと評価できるものでしょう。<br /><br />ただし、条約の不備は是正しなければなりません。<br />旧安保条約には、アメリカ軍の防衛義務が明記されていないことの他にも、<br />条約の有効期限がないことや、<br />内乱・騒擾の発生時にアメリカ軍が出動する条項(内政干渉です)など、<br />問題点がありました。<br />そこで、「日米新時代」をスローガンに掲げ、<br />対米従属からの脱却を目指した岸信介内閣によって、 <br />1960年、安保改定が行われました。<br />新たに結ばれた日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)では、<br />条約の期限は10年間、米軍の防衛義務も明記されます。<br />また、在日米軍が軍事行動を行ったり配置転換をしたりする際には、<br />日米間で事前協議が行われることも取り決められました。<br />(今回の外務省の調査で明らかになったのは、<br />①核を積んだ艦船の寄港・通過と、②朝鮮有事における米軍の出動に関して、<br />事前協議の対象外とする密約が交わされていたことです。<br />ただし、それ以外の案件に関しても、<br />これまで事前協議は一度も開かれたことがありません。<br />アメリカ軍を〈信用する〉という立場から、<br />日本政府が開催を求めないからです)<br /><br />しかし、対等なパートナーシップを結ぶからには、<br />アメリカの軍事力に依存するだけではいられません。<br />第一に、日本の防衛力強化が盛り込まれました。<br />(「憲法上の規定に従うことを条件として」と、<br />戦力の不保持を定めた日本国憲法第９条に配慮したものでしたが）<br /><br />そして、大問題となったのが以下の２つの条文です。<br />「第５条　各締約国は、日本国の施政権下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」<br />日本の防衛義務と日米共同作戦行動を定めたものです。<br /><br />「第６条　日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」<br />アメリカ軍の極東出動時に日本国内の基地を使用することを認めたものです。<br />(なお、「極東」の範囲に関しては現在でも明確化されていません。<br />社会科学編別冊「日米安全保障共同宣言」「日米ガイドライン」参照)<br /><br />もし、日本国内の基地を飛び立ったアメリカの戦闘機が、<br />ソ連(当時)や中国を攻撃したのならば、<br />その基地が相手からの反撃の対象となっても文句は言えません。<br />実際に、1960年の条約批准の国会審議中に、<br />ソ連領空を侵犯したアメリカ偵察機が撃墜され、<br />日本の厚木基地を使用したことが明らかになると、<br />ソ連のフルシチョフ首相が報復を警告する事態に発展しました。<br />こうして、日本がアメリカの軍事戦略に巻き込まれるとの危機感が高まり、<br />岸内閣が条約批准を衆議院で強行採決したのをきっかけに、<br />安保闘争は国民的なうねりとなっていったのでした。<br /><br />今回の調査で明らかになった密約問題は、<br />戦後の日米安保体制抜きでは考えられません。<br />そして、アメリカに寄り添って世界で生きていく道を選んだ日本は、<br />密約も、その密約を国民にひた隠してきたことも、<br />不可避なものであったと僕は考えますが、<br />それは次回掘り下げて考えたいと思います。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 15 Mar 2010 01:20:00 -0000</pubDate>
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<title>「墨塗り教科書」から文部省著作教科書へ</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14158.html</link>
<description><![CDATA[社会科にしろ〈学習〉指導要領にしろ、<br />戦後教育の始まりにとても興味がわいてきましたので、<br />もう少し話を続けさせて下さい。<br />&nbsp;<br />『山びこ学校』には、<br />「生命財産の保護」「日本のいなかの生活」など、<br />きわめて魅力的なタイトルの教科書が出てきます。<br />いったい何なのだろうと調べたところ、<br />1947年に社会科が創設された時に作られた、<br />中学社会科用の文部省著作教科書であることが分かりました。<br /><br />このような教科書が登場した背景を考えるには、<br />「墨塗り教科書」について見ておく必要があるでしょう。<br />終戦から１か月後の1945年９月15日、<br />連合軍による占領下に置かれた日本政府は、<br />戦前の軍国主義的な教育を改め平和教育を推進すべきことを説いた<br />「新日本建設ノ教育方針」を発表します。<br />その中で、これまで用いられてきた教科書は次のような扱いとされました。<br /><br />「三　教科書<br />　教科書ハ新教育方針ニ即応シテ根本的改訂ヲ断行シナケレバナラナイガ差当リ訂正削除スベキ部分ヲ指示シテ教授上遺憾ナキヲ期スルコトトナツタ」<br /><br />新しい教科書を作成・配布することができない状況なので、<br />戦中の教科書の軍国主義的な記述や民主主義に反する内容を削除して<br />用いることにしたのです。<br />それがいわゆる「墨塗り教科書」です。<br /><br />「墨塗り教科書」の実例については以下のページをご覧下さい。<br /><a href="http://poem06.flib.fukui-u.ac.jp/~joho/info/blacktext/">http://poem06.flib.fukui-u.ac.jp/~joho/info/blacktext/</a><br />教科書の「墨塗り」は音楽などの教科にも及んでいます。<br />例えば、国民学校低学年向け唱歌「モモタラウ」は、<br />挿絵も含めて全面削除です。<br />その理由は、歌詞を読めば分かります。<br />「ハタハ　日ノマル　青イ　海　小サナ　フネガ　ホ　ヲ　アゲタ」<br />犬・猿・雉を引き連れて鬼が島へ鬼退治に行く桃太郎の話は、<br />日の丸を掲げて戦地へ赴く内容に仕立てられていたのです。<br />その他、算数の教科書では何の必然性もなく<br />戦車や大砲の数を計算させる文章題が掲載されていたりと、<br />あらゆる機会を用いて子どもたちに軍国主義の精神を植え付けようとしていたことが分かります。<br />(注　国民学校<br />　太平洋戦争開始の1941年、小学校は国民学校に改編され、忠君愛国の精神に基づいて戦時体制を支える皇国民の錬成が図られた）<br /><br />「墨塗り」を行ったのは子供たち自身です。<br />文部省からの通知に従って授業中に先生方が行わせました。<br />教科書を真っ黒にするというこれまでの教育を全面否定する行為に、<br />先生方は心を傷めたに違いありません。<br />そして、昨日まで国のために命を捧げよと言ってきた先生方(大人たち)の<br />手のひらを返した態度に、子どもたちも不信感を抱いたことでしょう。<br />戦後の新しい教育にふさわしい、新しい教科書が求められていました。<br />そうして作られたのが、文部省著作教科書だったのです。<br /><br />(現在は検定制度に基づいて民間の出版社が教科書を発行していますが、<br />戦後間もなくは文部省が作成していました。<br />なお、現在でも高校「家庭」「工業」など需要の少ない科目については、<br />文部科学省著作教科書が発行され、使用されています)<br /><br />ところで、前回、<br />1947年に作成された当初の学習指導要領(試案)は、<br />子どもたちの〈学習〉を指導することに主眼が置かれ、<br />学校の先生の創意工夫に委ねることで、<br />子どもたちを「学ぶことの主体性」に開かせようとしていたと<br />指摘しました。<br />その意図は、教科書にも反映されています。<br />例えば、小学校６年生用の社会「土地と人間」には、<br />巻末に「教師および父兄の方へ」として以下の一節が記されています。<br /><br />「この本は、児童たちに、社会科学習の手がかりとなる若干の資料を与え、合わせてその学習のしかたを暗示している。その資料は、第六学年の児童に、ぜひ与えなければならない知識を精選して排列したものではない。それは範囲からいっても深さからいっても偏している。だから、従来の教科書と同じように考えてはいけない。むしろ、児童用の参考書の一種として取り扱っていただきたい。したがって、この本に書いてあることを、順々に説明したり、暗記させたりしては困る」(一部旧字体を改めた)<br /><br />文部省が自ら教科書を作成しながら、<br />教科書「を」教えるのではなく教科書「で」教えることを<br />求めていたことに注目して下さい。<br />例えば、学習指導要領(試案)一般編にも次のような記述があります。<br /><br />「これまでの教育は、その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても画一的になって、教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは、教育の実際にいろいろな不合理をもたらし、教育の生気をそぐようなことになった」(一　なぜこの書はつくられたか)<br /><br />先生や子どもたちを「学ぶことの自主性」に開かせるためには、<br />中央集権的で画一的な教育のあり方を改めなければならない。<br />そのことを、上に立つ者が認識していれば十分です。<br /><br />ひるがえって、<br />制度的に(のみ)民間の出版社に発行を委ねる現行の教科書検定制度が、<br />本当に民主的で子どもたちにとって良いものなのか、<br />考えさせられてしまいますが、<br />深入りするのは止めておきましょう。<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 08 Mar 2010 02:55:00 -0000</pubDate>
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<title>2010年一橋大学日本史解答例(私案)</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14134.html</link>
<description><![CDATA[<div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">Ⅰ</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">１近世の農村では、農業の集約化・多角化による生産性</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">の向上を図るべく商品作物の栽培が行われるとともに、</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">生活必需品や生産に必要な金肥・農具などを購入するた</span></div><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">め銭を必要とし、年貢納入後の余剰生産物を換金した。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">２幕藩も生産を奨励した多年性樹木の漆・茶・楮・桑。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">３貨幣経済の農村への浸透は農民層の階層分化を促し、<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">幕藩の財源基盤である本百姓体制を揺るがした。また、<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">需要の高まりに伴う物価の上昇と、その反対に新田開発<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">などによる供給過剰から生じた米価の低迷は、支出の増<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">加と収入の減少をもたらし、幕藩の財政を窮乏させた。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">４ア田沼意次。商業資本を利用した財政再建を目指した<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">田沼は、在方株の積極的公認を通じて、各地で成長する<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">在郷商人の掌握と運上・冥加収入の増収を図った。イ水<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">野忠邦。江戸における物価騰貴に対処すべく、水野は三<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">都商人に対して株仲間の解散を命じ、自由な商取引を促<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">すことで江戸への物資供給量の増加を図ろうとした。<br /></span><div><br /><span style="font-size: small"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif">＊ 昨年は内容(文化史)といい設問数(６問)といい意表を突かれたが、今年は社<br />&nbsp;&nbsp; 会経済史を中心とする一橋大日本史の王道に戻った感がある。問４の株仲間<br />&nbsp;&nbsp; に関する問題も、出されるべくして出されたと言えるだろう。<br /></span><br /><br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">Ⅱ<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">１高橋蔵相の積極政策による重化学工業の発達と、低為<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">替政策による中国市場への綿布輸出の拡大とで、大都市<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">に労働者が集まった。一方で、農村部は昭和恐慌の後遺<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">症に苦しみ、政府の自力更生路線の下で困窮していた。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">２日中戦争が長期化する中、総動員体制の下で労働者が<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">軍需産業に動員され、大都市への人口集中が加速した。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">３戦線がアジア太平洋に拡大する中で、農村部では食糧<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">増産のため労働力の確保が図られる一方で、都市部から<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">成年層が軍事動員された。その後、戦局が悪化し大都市<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">への空襲が激化すると、住民や工場の疎開が行われた。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">４農地改革は零細農家を増加させる結果となったため、<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">高度成長期には都市部との経済格差が拡大し、農村部か<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">らの人口流出が問題化した。こうした中、1961年に制定<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">された農業基本法は、経営の近代化や機械化・大規模化<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">による自立経営農家の育成を目的としたが、逆に兼業農<br /></span><span style="font-size: small"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif">家を増加させる結果に終わり過疎化に拍車がかかった。<br /></span><br /></span><span style="font-size: small"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif">＊ 経済状況と人口の増減の関連を問う問題は1998年にすでに出題されている。<br />&nbsp;&nbsp; 問４は農地改革の負の部分に踏み込む必要がある。その点でYの解答は物足<br />&nbsp;&nbsp; りない。<br /></span><br /><br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">Ⅲ<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">１内村鑑三不敬事件。第一高等中学校の講師であった内<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">村が、キリスト者としての内面的な良心から教育勅語に<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">最敬礼を行わなかったため、天皇や皇室に対する不敬で<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">あるとして非難の世論を浴び、辞職を余儀なくされた。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">２1937年に文部省は天皇を中心とした一君万民体制を説<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">く『国体の本義』を発行して学校に配付し、国民教化の<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">根本とした。また、1941年には小学校を国民学校に改編<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">し、国家主義的教育を推進して皇国民の錬成を図った。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">３内地との一体化を図るため、日本語や神社参拝などの<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">皇民化政策が行われ、朝鮮では創氏改名も強制された。<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">４終戦直後、GHQによる教育の自由主義化指令を受け、<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">軍国主義者の教職追放や修身・日本歴史・地理の授業停<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">止が行われた。その後、1947年には、教育の機会均等や<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">男女共学を定めた教育基本法や、単線型の新学制を規定<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">した学校教育法が制定された。また、1948年には教育委<br /></span><span style="font-size: small"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif">員会法が制定されて教育行政の地方分権化が図られた。<br /></span><br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">＊ 近代教育史は一橋大日本史での出題が十分に予想されていた。どの設問も、<br />&nbsp;&nbsp; 用語の定義的説明を問う一橋大日本史らしい問題だったと言える。<br /><br /></span></div>]]></description>
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<pubDate>Thu, 04 Mar 2010 00:30:00 -0000</pubDate>
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<title>2010年東京大学日本史解答例(私案)</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14130.html</link>
<description><![CDATA[<br /><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">第１問</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">奈良時代には律令制下で能力に応じて官位が与えられることが建前</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">であったが、しだいに形骸化して貴族の身分は世襲・固定されると</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">ともに、財政の悪化により官人への給与も滞るようになった。こう</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">した中で、中下級貴族は地方支配が委任され私的な富の蓄積が可能</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">となった受領への任官を望み、官吏の任免権を握る摂関家などの上</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">級貴族に物資の提供などを通じて家司として仕える道を選んだ。<br /></span></div><div class="MsoNormal"><br /><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">＊ 中国の科挙のような人材登用制度が日本の律令制下でも機能していたのな<br />&nbsp;&nbsp; らば、中下級貴族が摂関家に私的に仕える関係を結ぶ必要はなかったはずで<br />&nbsp;&nbsp; ある。官僚制における能力に応じた昇進に触れているK以外の解答は、「奈良<br />&nbsp;&nbsp; 時代からの変化」に答えられていないのではないか。</span></div><div><br /><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">&nbsp;</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">第２問</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">A 気候が温暖な九州からは米が、商品作物の栽培が発達した畿内か</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">らは油が、養蚕や畑地に適した関東からは絹や麻が納められた。</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">B 年貢を現地で換金し京都の荘園領主に銭で納めるようになった。</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">C 貨幣経済が発達し、京都を中心に全国流通網が形成される中で、</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">年貢も商品として扱われ、財物が京都に集積するようになった。<br /><br /></span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">＊ 近年の東大日本史では、地域的な多様性に目を向けさせる出題が目立つ。網<br />&nbsp;&nbsp; 野善彦氏の資料を引用してことを考えれば、Tのような解答もありなのでは<br />&nbsp;&nbsp; ないか。しかし、Cに関しては今の段階で自信を持って解答を示すことがで<br />&nbsp;&nbsp; きない。年貢が「商品」化される過程にもっと踏み込む必要があるように思<br />&nbsp;&nbsp; う。</span></div><div><br /><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">&nbsp;</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">第３問<br /></span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">A 山師としては資金力があり佐渡金山・生野銀山などで鉱山運営の</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">経験を持つ北陸・畿内の商人が集まり、精錬職人としては石見大森</span></div><div class="MsoNormal"><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">銀山などで灰吹法の技術を身につけた中国地方の者が集まった。</span></div><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">B 本百姓からの年貢徴収を財源とする藩にとって、費用のかかる三<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">都以外に領国内で独占的に割高で取引できる市場を確保できた。<br /><br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">＊ 東大日本史は時おり系統的・網羅的に(のみ)学習してきた受験生をあざ笑う<br />&nbsp;&nbsp; かのような問題を出題することがあり、そうした野性味あふれる問題を僕は<br />&nbsp;&nbsp; 結構気に入っている。Bは諸藩の財政が本百姓体制を基盤としていることを指<br />&nbsp;&nbsp; 摘しなければ論旨として十分ではない。合格点はSのみだと思う。<br /><br /><br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">第４問<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">条約改正交渉の失敗や朝鮮での日清間の対立は民権派内でも国権論<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">を高めさせ、三大事件建白運動での外交失策を求める動きとなって<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">現れた。また、井上外相の極端な欧化政策に対する反発から、徳富<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">蘇峰は国民の生活向上を求める平民的欧化主義を唱えたが、一方で<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">日本の伝統的な精神や文化を称揚する三宅雪嶺らの国粋主義も台頭<br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">し、日本美術を再評価する機運の中で東京美術学校が設立された。<br /><br /></span><span style="font-family: ＭＳ ゴシック,Helvetica,sans-serif; font-size: small">＊ 1880年代の動向は東大日本史の空白地帯であったが、ついに出題されたとい<br />&nbsp;&nbsp; う感じである。自由民権運動の展開と国権論の高まりは、教科書ではきちん<br />&nbsp;&nbsp; と関連づけて説明されていないので、自分で論旨を組み立てる必要がある。<br />&nbsp;&nbsp; というよりも、様々な要素を関連づけて多面的に考察する学習が、東大日本<br />&nbsp;&nbsp; 史では求められることを再認識させられた。<br /><br /><br /></span>]]></description>
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<pubDate>Wed, 03 Mar 2010 06:50:00 -0000</pubDate>
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<title>社会科の誕生と〈学習〉指導要領</title>
<link>http://aizawa.passnaviblog.jp/archives/14108.html</link>
<description><![CDATA[前回の話の続きです。<br />僕は、生活綴り方＝作文という先入観があったものでしたから、<br />無着先生はてっきり国語の先生だと思っていたのですが、<br />社会科の教師として山元中学校に赴任したということを、<br />『山びこ学校』のあとがきを改めて読んで気づき、驚きました。<br />(もっとも、山間の小さな学校で全科目を教えなければならなかったのですが)<br /><br />社会科は、戦後、<br />アメリカ教育使節団報告書(第１次・1946年)に基づいて、<br />民主教育の一環として鳴り物入りで創設された科目です。<br />戦前には、歴史・地理・政治とバラバラの科目で行われていました。<br />しかし、一つには知識偏重であるという批判と、<br />(予備校講師として耳が痛いです)<br />もう一つには軍国主義の片棒を担いだという批判から、<br />(戦前の日本史は非科学的な皇国史観に基づいて教えられ、<br />教科書でも天皇に関する記述は最高敬語を用いるという徹底ぶりでした。<br />また、地理はそもそも軍事的・地政学的な色合いの強い科目です。<br />地図の記号って、湿田はぬかるんで兵が進めないとか、<br />広葉樹林は冬に落葉して身を隠せないとか、<br />軍事目的で作られたものなのですよ)<br />終戦後にGHQによる教育の民主化指令を受けてこれらの授業を停止し、<br />民主社会を担う公民的資質を養うという目的で社会科が創設されたのです。<br /><br />つまり、単に知識として歴史や地理を学ぶのではなくて、<br />それらの知見を幅広く集約し、民主的な社会を創造する力を養おうというのが、<br />社会科の本来の目的だったのです。<br />現在の学習指導要領においても、次のように目標が記されています。<br />「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し、我が国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」<br />(平成14年４月施行・中学校学習指導要領・第２節社会・第１目標)<br />無着先生は戦後の社会科教師の一期生でした。<br />何をどう教えれば良いのか、すべて手探りで始めて、<br />そして到達したのが『山びこ学校』だったのです。<br />それは、社会科の理念を見事に実現したものと言えるでしょう。<br />子どもたちは、自分たちの生活を直視することを通じて、<br />日本社会や農業の抱える問題点にまで到達していたのですから。<br />(前回紹介した「学校はどのくらい金がかかるものか」はその一例です)<br /><br />ところで、『山びこ学校』を改めて読み直すと、<br />あとがきに無着先生が次のような一文を書き記していて驚嘆しました。<br />「社会科は、「教科書で勉強するのではない」といい「社会の進歩につくす能力をもった子供にしなければならない」という文部省の考えの深さに驚いたのでした。」<br />驚くのはこちらの方です。<br />今の学校の先生は、学習指導要領にがんじがらめにされています。<br />文部省(現文部科学省)が「教科書で勉強するのではない」なんて言うとは、とても信じられません。<br />そこで、1947年に初めて作成された学校指導要領を調べてみました。<br />(なお、過去の学習指導要領は、 NICER教育情報ナショナルセンターのホームページで閲覧できます）<br /><a href="http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s22ej/">http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s22ej/</a><br /><br />まず、第一に注目すべきは、当初の学習指導要領には、<br />表題に(試案)の２文字が書き添えられていた、ということです。<br />終戦直後、国も新しい民主的な教育に向けて、試行錯誤の段階でした。<br />ですから、これをやれ、というものではなく、<br />一つの提案をして、後は先生の自由に任せようというのが、<br />本来の学習指導要領だったのです。<br /><br />序論にはこう記されています。<br />「もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。しかしそういう目標を達するためには、その骨組みに従いながらも、その地域の社会の特性や、学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて、それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え、その方法を工夫してこそよく行くのであって、ただあてがわれた型のとおりにやるのでは、かえって目的を達するに遠くなるであろう。」<br />先生自身を「学ぶことの主体性」に開かせようとした意図が読み取れます。<br /><br />そして、第二に注目すべきは、<br />「学習指導要領」という言葉の意味です。<br />僕はこれまで、なぜ〈学習〉指導要領なのか、考えてもみませんでした。<br />その意味、その目標は、明解にこう書かれています。<br />「児童や青年は、現在ならびに将来の生活に起る、いろいろな問題を適切に解決して行かなければならない。そのような生活を営む力が、またここで養われなくてはならないのである。それでなければ、教育の目標は達せられたとは言わない。」<br />学習指導要領とは本来、<br />学校の先生が何をどう教えるかという手引きではなく、<br />子どもたちをいかに〈学び〉へと導いていくかという視点で作られた、<br />まさに〈学習〉指導要領だったのです。<br />そして、子どもたちを「学ぶことの主体性」に開かせるものは<br />先生の「学ぶことの主体性」ですから、<br />２つの注目点はつながっています。<br /><br />この学習指導要領が今もあれば、<br />僕が社会科学編で「16．超極私的教育論」なんて書く必要も、<br />ウチダ先生が沓をはかせる話を何度も語る必要もないのでした。<br />(<a title="11月29日付ブログ" href="http://aizawa.passnaviblog.jp/2009/11/29/" target="_blank">11月29日付ブログ</a>参照)<br />]]></description>
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<pubDate>Mon, 01 Mar 2010 01:15:00 -0000</pubDate>
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