ねじれ国会の作法
昨日行われた第22回参議院通常選挙において、
連立政権を組む民主党と国民新党は非改選議席を合わせても過半数を獲得できず、
衆参国会で再びねじれ現象が生じることになりました。
参議院で野党が過半数を上回る国会のねじれ現象は、
前回の2007年の第21回参議院選挙で、
自民党・公明党の連立政権(安倍内閣)が敗北したのに引き続いてです。
その時は衆議院の3分の2ルールを利用して法案を通すことができましたが、
それでも野党だった民主党の審議拒否戦術に苦しめられ、
安倍内閣の後を継いだ福田内閣が短命に終わる原因となりました。
今回は直前に社民党が連立を離脱したため衆議院で3分の2を確保しておらず、
菅内閣はさらに苦しい立場に置かれることが予想されます。
*参考 衆議院の3分の2ルール
日本国憲法は国会に関する規定において、法律案・予算の議決・条約の承認について衆議院の優越を定めている。特に法律案については、第59条2項に「衆議院で可決し、参議院で異なる議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる」とある。これが3分の2ルールで、2006年のいわゆる優勢選挙で衆議院では圧倒的優位を保っていた当時の連立与党はこれでしのいだ。
ですが、国会議員の役割は法律を作ることです。
それは与党であっても野党であっても変わりありません。
数の論理だけで与党が多数決を強行する、
逆に、党利党略のため野党が審議拒否を繰り返す。
こうした醜い争い末、政治が停滞して被害を受けるのは国民です。
ねじれ現象とは、見方を変えれば与党と野党が真剣に議論を戦わせ、
修正案を出しあって一歩ずつ前進していく絶好の環境だとも言えます。
それなのに、無用の対立を続けてきたのは与党・野党双方の責任です。
なぜ、議論を進めるルール作りをしてこなかったのか。
こう思うのは、戦前の議会ではそうした努力がなされ、
きわめて民主的な議会運営が行われていたからです。
1989年2月12日、大日本帝国憲法が発布された翌日のこと、
時の黒田清隆首相は地方長官を招いた晩餐会で、
「超然主義演説」と呼ばれる次のような演説を行いました。
「欽定の憲法は臣民の敢て一辞を容ることを得ざるは勿論、各般の行政は之に準拠して針路を定め、天皇陛下統治の大権に従属すべきは更に贅言を要せざるなり。然るに政治上の意見は人々其所説を異にし、其説の合同する者相投じて一の団結をなし、政党なる者の社会に存立するは情勢の免れざる所なりと雖、政府は常に一定の政策を取り、超然政党の外に立ち、至正至中の道に居らざる可らず。各員宜く意を此に留め、常に不偏不党の心を以て人民に臨み、其間に固執する所なく、以て広く衆思を集めて国家_隆の治を助けんことを勉むべきなり」(仮名づかいを改めた)
この演説は、帝国議会の開催を前にして、
政府は議会や政党の意向に左右されない立場を表明したものとして、
教科書などでは否定的に説明されています。
しかし、その文言を先入観なしに読んでみると、
言わんとするところは、意見を同じくする者たちは政党を結成するけれども、
政府は「常に一定の政策を取」るために、
「政党の外に立」って「至正至中の道に」いなければならない。
だから、「不偏不党の心」で人民に臨んで、「広く衆思を集めて」政治を行おうという、
きわめて真っ当なことです。
黒田や伊藤博文ら藩閥政府首脳の真意は、
政府が一つの政党の意見に偏ってはいけないという点にあったことは、
伊藤が「一政府の党派は甚だ不可なり」と述べていることからも分かります。
多くの政党、多くの人々の意見を集約して政治を行っていこうというのが、
「超然主義」のそもそもの意味合いだったのです。
*参考 藩閥政府
明治新政府を発足させた薩摩藩と長州藩の出身者が要職を独占した状態の政府のこと。初期の内閣は、伊藤(長州)→黒田(薩摩)→山県(長州)→松方(薩摩)→伊藤(長州)→松方(薩摩)と薩長で交互に担当していた。
翌1890年7月1日の第1回衆議院総選挙において、
板垣退助率いる立憲自由党など民党(自由民権派の流れをくむ政党)が勝利し、
吏党(藩閥政府を支持する政党)が過半数を取れなかったことから、
初期議会では藩閥政府と民党とが激しくぶつかり合いました。
しかし、両者は空しく対立していたわけではありません。
藩閥政府からすれば、予算を議会で通さなければなりません。
一方、民党にとっても、政策を実現するには政府への歩み寄りが必要です。
(だから、政府を飛び出して反対していれば良いといわんばかりの福島大臣の態度が、
僕には無責任にしか思えないのです)
かくして、しだいに意見調整のためのルールが作られていきます。
そして、日清戦争後には板垣が入閣を果たすなど藩閥政府と民党は接近していき、
政党内閣への下地が準備されていくのです。
前回、東大日本史の問題を考えながら、
戦前の大日本帝国憲法下でも民主政治は花開いていたと論じました。
それは、政治家が憲法を民主的に運用しようと努力していたからこそです。
そのボールは、ねじれ国会を迎える与野党の議員に投げ返されています。
連立政権を組む民主党と国民新党は非改選議席を合わせても過半数を獲得できず、
衆参国会で再びねじれ現象が生じることになりました。
参議院で野党が過半数を上回る国会のねじれ現象は、
前回の2007年の第21回参議院選挙で、
自民党・公明党の連立政権(安倍内閣)が敗北したのに引き続いてです。
その時は衆議院の3分の2ルールを利用して法案を通すことができましたが、
それでも野党だった民主党の審議拒否戦術に苦しめられ、
安倍内閣の後を継いだ福田内閣が短命に終わる原因となりました。
今回は直前に社民党が連立を離脱したため衆議院で3分の2を確保しておらず、
菅内閣はさらに苦しい立場に置かれることが予想されます。
*参考 衆議院の3分の2ルール
日本国憲法は国会に関する規定において、法律案・予算の議決・条約の承認について衆議院の優越を定めている。特に法律案については、第59条2項に「衆議院で可決し、参議院で異なる議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる」とある。これが3分の2ルールで、2006年のいわゆる優勢選挙で衆議院では圧倒的優位を保っていた当時の連立与党はこれでしのいだ。
ですが、国会議員の役割は法律を作ることです。
それは与党であっても野党であっても変わりありません。
数の論理だけで与党が多数決を強行する、
逆に、党利党略のため野党が審議拒否を繰り返す。
こうした醜い争い末、政治が停滞して被害を受けるのは国民です。
ねじれ現象とは、見方を変えれば与党と野党が真剣に議論を戦わせ、
修正案を出しあって一歩ずつ前進していく絶好の環境だとも言えます。
それなのに、無用の対立を続けてきたのは与党・野党双方の責任です。
なぜ、議論を進めるルール作りをしてこなかったのか。
こう思うのは、戦前の議会ではそうした努力がなされ、
きわめて民主的な議会運営が行われていたからです。
1989年2月12日、大日本帝国憲法が発布された翌日のこと、
時の黒田清隆首相は地方長官を招いた晩餐会で、
「超然主義演説」と呼ばれる次のような演説を行いました。
「欽定の憲法は臣民の敢て一辞を容ることを得ざるは勿論、各般の行政は之に準拠して針路を定め、天皇陛下統治の大権に従属すべきは更に贅言を要せざるなり。然るに政治上の意見は人々其所説を異にし、其説の合同する者相投じて一の団結をなし、政党なる者の社会に存立するは情勢の免れざる所なりと雖、政府は常に一定の政策を取り、超然政党の外に立ち、至正至中の道に居らざる可らず。各員宜く意を此に留め、常に不偏不党の心を以て人民に臨み、其間に固執する所なく、以て広く衆思を集めて国家_隆の治を助けんことを勉むべきなり」(仮名づかいを改めた)
この演説は、帝国議会の開催を前にして、
政府は議会や政党の意向に左右されない立場を表明したものとして、
教科書などでは否定的に説明されています。
しかし、その文言を先入観なしに読んでみると、
言わんとするところは、意見を同じくする者たちは政党を結成するけれども、
政府は「常に一定の政策を取」るために、
「政党の外に立」って「至正至中の道に」いなければならない。
だから、「不偏不党の心」で人民に臨んで、「広く衆思を集めて」政治を行おうという、
きわめて真っ当なことです。
黒田や伊藤博文ら藩閥政府首脳の真意は、
政府が一つの政党の意見に偏ってはいけないという点にあったことは、
伊藤が「一政府の党派は甚だ不可なり」と述べていることからも分かります。
多くの政党、多くの人々の意見を集約して政治を行っていこうというのが、
「超然主義」のそもそもの意味合いだったのです。
*参考 藩閥政府
明治新政府を発足させた薩摩藩と長州藩の出身者が要職を独占した状態の政府のこと。初期の内閣は、伊藤(長州)→黒田(薩摩)→山県(長州)→松方(薩摩)→伊藤(長州)→松方(薩摩)と薩長で交互に担当していた。
翌1890年7月1日の第1回衆議院総選挙において、
板垣退助率いる立憲自由党など民党(自由民権派の流れをくむ政党)が勝利し、
吏党(藩閥政府を支持する政党)が過半数を取れなかったことから、
初期議会では藩閥政府と民党とが激しくぶつかり合いました。
しかし、両者は空しく対立していたわけではありません。
藩閥政府からすれば、予算を議会で通さなければなりません。
一方、民党にとっても、政策を実現するには政府への歩み寄りが必要です。
(だから、政府を飛び出して反対していれば良いといわんばかりの福島大臣の態度が、
僕には無責任にしか思えないのです)
かくして、しだいに意見調整のためのルールが作られていきます。
そして、日清戦争後には板垣が入閣を果たすなど藩閥政府と民党は接近していき、
政党内閣への下地が準備されていくのです。
前回、東大日本史の問題を考えながら、
戦前の大日本帝国憲法下でも民主政治は花開いていたと論じました。
それは、政治家が憲法を民主的に運用しようと努力していたからこそです。
そのボールは、ねじれ国会を迎える与野党の議員に投げ返されています。

コメント