2010-3-22

人が人を想う気持ちについて

「逢いたくなったらまた来て下さい。
 私たちはいつでもここにいます」
舞台が終わった後、劇団の中心的な役者である西川浩幸さんは、
決まってこう挨拶します。
その言葉に誘われるかのように、季節の変わり目ごとに行われる
年4〜5回の演劇集団キャラメルボックスの公演に、僕は必ず足を運びます。
それは、僕の心のうちにもちゃんとある「人が人を想う気持ち」を、
確かめるためなのかもしれません。

僕がもっとも心に残っている作品が、
いしいしんじさん原作の『トリツカレ男』です(原作は新潮文庫刊)。

外国語、オペラ、昆虫採集、三段跳び・・・
次から次へと取り憑かれたように夢中になるジュゼッペのことを、
町の人は「トリツカレ男」と呼びます。
ジュゼッペが次に取り憑かれたのは、
寒い異国からやってきた無口な風船売りの少女ペチカでした。
ペチカは、お母さんの病気の治療のために異国の地で不馴れな生活を送り、
町の人とも言葉が上手く通じず、心を閉ざしていました。

ジュゼッペは、ペチカに笑顔を取り戻してあげたくて、
これまで取り憑かれて身に付けてきた技のすべてを尽くします。
医者になりすまし、歌の力でお母さんの病気も直してしまいます。
しだいにペチカは心を開き、笑顔を見せるようになりました。
しかし、ペチカの笑顔から「くすみ」がどうしても取れません。
それは、婚約者であるタタン先生が心に棲みついていたからでした。

教え子であったペチカは、
タタン先生と結婚を約束してジュゼッペの住む町に来ました。
ところが、タタン先生はコーチを務めるアイスホッケー部の合宿中に、
雪山で事故に遭って亡くなってしまいます。
ロープウェーに取り残された子どもたちを救うため、
自分が犠牲になって飛び下りたのでした。

ぺチカの部屋の中がタタン先生の写真で埋め尽くされていることを
知ったジュゼッペは、自分がタタン先生になることを決意します。
仮面をつけて変装し、
夕方遅くまで子どもたちにアイスホッケーを教え、
そして夜には梯子から窓ごしにペチカに話しかけました。
無理がたたって、ジュゼッペは身体をこわしてしまいます。
しかし、ジュゼッペはペチカの許を訪れることを止めませんでした。

ある晩、ペチカは満面の笑顔で、
ジュゼッペという新しい友達ができたと、
タタン先生に変装したジュゼッペに、それとは知らず話します。
ジュゼッペは、一抹の寂しさを感じながらも、
ペチカに本当の笑顔が戻るならそれで良いと、
ペチカの部屋に通い続けました。

ペチカのお母さんの病気が治って、故郷に帰る日のことです。
ジュゼッペはその日も病身をおしてペチカの部屋に向かいました。
梯子を上り、いつものように窓に呼びかけると、
そこに立っていたのはタタン先生でした。

タタン先生は子どもたちを助けるのに精いっぱいで、
ロープウェーから飛び下りたときにペチカのことを想ってやれなかったことを悔やみ、
魂がこの世に取り残されていました。
ペチカの心のうちに棲みつく自分への想いをぬぐい去ってあげたい。
そう想っているところに現れたのが、ジュゼッペでした。
タタン先生の魂は、このトリツカレ男を見込んで、
ペチカの氷の心を溶かせようとしたのです。

タタン先生はジュゼッペに感謝の言葉を述べ、こう言います。
「私はきみのからだ越しにたくさんのことをペチカにはなした。ペチカもはなしてくれたんだ。あのこがきみの話をしてくれたとき、ああ、もうほとんど大丈夫だ、と私にはわかった。ペチカにはちゃんと、この世にジュゼッペ、きみがいる。・・・ほんとうにありがとう、ジュゼッペ君。私はやっとこの世からいなくなる」
そして、タタン先生はジュゼッペに最後のお願いをします。
それは、自分がロープウェーから飛び下りたときにしてやれなかったこと、
ペチカの名を呼びながら梯子からまっさかさまに落ちることでした。

(僕は今、こうやって書いているだけで涙が止まらなくなっています。
自分でも何を書いているのかよく分かりません。
かろうじてここまで読んでくれた方も、何のことやらとお思いでしょう。
しかし、です。
本当に伝えたい想いは、きちんと整理された言葉にならないものなのです。
そして、どんなに意味不明で支離滅裂であっても、
このことは書かなくてはならないと心がかき立てられて、
今回は核密約問題の続編という予定を置き去りにしたまま、
トリツカレたように書いています)

ペチカは、帰りの駅のホームで、
この町で自分の身に訪れた幸運の全てが
ジュゼッペの計らいであったことを聞かされます。
そして、毎晩やってきたタタン先生のホッケーだこが、
左手にできていたことを思い出します。
タタン先生は右利きなのに、です。
ペチカは、ジュゼッペがタタン先生に変装していたことに気付きます。
そして、変装したタタン先生が自分に話しかけてくれた、
「私がトリツカレたのは、ホッケーではない。子どもたちだ。私の周りにいる素晴らしい人たちだ。
そして何より、君だ」
という言葉が、ジュゼッペ自身のものであったことに思い至ります。

ペチカは、一目散に今晩もジュゼッペがタタン先生に変装して
来てくれているはずの自分の部屋に戻ると、
ジュゼッペは自分の名前を叫んで梯子から飛び下りているところでした。
ペチカはジュゼッペの背中をその腕でしっかりと抱きとめ、
二人は結ばれたのでした。
(僕はもうこの場面をDVDで何度も観てそのたびに号泣です)

ここまで読んでいただいて大変申し訳ないのですが、
キャラメルボックスの魅力を、やはり言葉で伝えることはできません。
梶尾真治さん原作(朝日新聞出版)の、
クロノス・ジョウンターというタイムマシンに乗って、
過去に大切な人を救いに行くお話が、
『ミス・ダンデライオン』と『南十字星で』の2本立てて、
4月4日まで池袋サンシャイン劇場で上演されています。
ふだんの半分の60分という、
演劇初心者にも取っ付きやすい長さですので、
(逆に2本続けて観るとあまりの内容の濃さにキツイです)
「人が人を想う気持ち」を確かめにぜひ足を運んでみて下さい。

2010-3-15

密約問題を考えるために日米安保体制の歴史を振り返る

1951年9月8日、
ソ連など東側諸国を排除した単独講和(片面講和)の形式で、
サンフランシスコ平和条約が日本と48か国との間で調印され、
戦争状態の終了と占領の終結が決まりました。

その晩のことです。
主席全権であった吉田茂首相は、
サンフランシスコの郊外にあったアメリカ陸軍基地におもむき、
日米安全保障条約(旧安保条約)に単独で調印しました。
この時、吉田は同行した池田勇人蔵相(当時・後の首相)に向かって、
次のように語ったとされます。
「この条約はあまり評判がよくない。
君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」
この言葉は、戦後日本が西側陣営の一員として生きていく、
その責任を全て引き受ける吉田の覚悟を示すものでした。

さて、旧安保条約はなぜ「評判がよくない」のか。
第1条にはこうあります。
「平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は許与し,アメリカ合衆国はこれを受諾する」
〈権利〉とだけあって、〈義務〉の語がないことに注目して下さい。
アメリカに、日本を防衛する義務はない。
日本が一方的にアメリカ軍の駐留権を認めて、
いざ戦争が始まったら、アメリカ軍は逃げ出す可能性もあったのです。

このような、片務的な内容を承知で吉田がこの条約を結んだのは、
今こそ講和を果たし占領を終わらせる絶好の機会と考えたからです。
前年(1950年)の朝鮮戦争の開始を受けて、
アメリカは日本との講和の道を模索し始めていました。
一方で、吉田は講和における最大の懸案事項が
日本国内の米軍基地にあると考えていました。
冷戦が激化し、中国・朝鮮が分断されるという事態を前にして、
独立回復後の安全保障体制は喫緊の課題でした。
そこで、再軍備にかかる負担を軽減する方法として、
西側陣営の一員としてアメリカへの忠誠を誓い、
基地提供の見返りに安全保障を依存する道を吉田は選択したのです。

単独で署名するという責任を吉田が一身に引き受けた結果、
日米安保体制の下で防衛費が抑制され、
また、平和条約でも多くの国が賠償請求権を放棄したことと相まって、
経済復興に力を入れることができたことは、
日本が高度成長を遂げた大きな要因の一つです。
(社会科学編「1.高度成長の時代」参照)
ですから、1951年の時点における吉田の決断は、
アメリカの「イエス・マン」との批判も聞こえつつも、
間違っていなかったと評価できるものでしょう。

ただし、条約の不備は是正しなければなりません。
旧安保条約には、アメリカ軍の防衛義務が明記されていないことの他にも、
条約の有効期限がないことや、
内乱・騒擾の発生時にアメリカ軍が出動する条項(内政干渉です)など、
問題点がありました。
そこで、「日米新時代」をスローガンに掲げ、
対米従属からの脱却を目指した岸信介内閣によって、
1960年、安保改定が行われました。
新たに結ばれた日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)では、
条約の期限は10年間、米軍の防衛義務も明記されます。
また、在日米軍が軍事行動を行ったり配置転換をしたりする際には、
日米間で事前協議が行われることも取り決められました。
(今回の外務省の調査で明らかになったのは、
①核を積んだ艦船の寄港・通過と、②朝鮮有事における米軍の出動に関して、
事前協議の対象外とする密約が交わされていたことです。
ただし、それ以外の案件に関しても、
これまで事前協議は一度も開かれたことがありません。
アメリカ軍を〈信用する〉という立場から、
日本政府が開催を求めないからです)

しかし、対等なパートナーシップを結ぶからには、
アメリカの軍事力に依存するだけではいられません。
第一に、日本の防衛力強化が盛り込まれました。
(「憲法上の規定に従うことを条件として」と、
戦力の不保持を定めた日本国憲法第9条に配慮したものでしたが)

そして、大問題となったのが以下の2つの条文です。
「第5条 各締約国は、日本国の施政権下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」
日本の防衛義務と日米共同作戦行動を定めたものです。

「第6条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」
アメリカ軍の極東出動時に日本国内の基地を使用することを認めたものです。
(なお、「極東」の範囲に関しては現在でも明確化されていません。
社会科学編別冊「日米安全保障共同宣言」「日米ガイドライン」参照)

もし、日本国内の基地を飛び立ったアメリカの戦闘機が、
ソ連(当時)や中国を攻撃したのならば、
その基地が相手からの反撃の対象となっても文句は言えません。
実際に、1960年の条約批准の国会審議中に、
ソ連領空を侵犯したアメリカ偵察機が撃墜され、
日本の厚木基地を使用したことが明らかになると、
ソ連のフルシチョフ首相が報復を警告する事態に発展しました。
こうして、日本がアメリカの軍事戦略に巻き込まれるとの危機感が高まり、
岸内閣が条約批准を衆議院で強行採決したのをきっかけに、
安保闘争は国民的なうねりとなっていったのでした。

今回の調査で明らかになった密約問題は、
戦後の日米安保体制抜きでは考えられません。
そして、アメリカに寄り添って世界で生きていく道を選んだ日本は、
密約も、その密約を国民にひた隠してきたことも、
不可避なものであったと僕は考えますが、
それは次回掘り下げて考えたいと思います。

2010-3-8

「墨塗り教科書」から文部省著作教科書へ

社会科にしろ〈学習〉指導要領にしろ、
戦後教育の始まりにとても興味がわいてきましたので、
もう少し話を続けさせて下さい。
 
『山びこ学校』には、
「生命財産の保護」「日本のいなかの生活」など、
きわめて魅力的なタイトルの教科書が出てきます。
いったい何なのだろうと調べたところ、
1947年に社会科が創設された時に作られた、
中学社会科用の文部省著作教科書であることが分かりました。

このような教科書が登場した背景を考えるには、
「墨塗り教科書」について見ておく必要があるでしょう。
終戦から1か月後の1945年9月15日、
連合軍による占領下に置かれた日本政府は、
戦前の軍国主義的な教育を改め平和教育を推進すべきことを説いた
「新日本建設ノ教育方針」を発表します。
その中で、これまで用いられてきた教科書は次のような扱いとされました。

「三 教科書
 教科書ハ新教育方針ニ即応シテ根本的改訂ヲ断行シナケレバナラナイガ差当リ訂正削除スベキ部分ヲ指示シテ教授上遺憾ナキヲ期スルコトトナツタ」

新しい教科書を作成・配布することができない状況なので、
戦中の教科書の軍国主義的な記述や民主主義に反する内容を削除して
用いることにしたのです。
それがいわゆる「墨塗り教科書」です。

「墨塗り教科書」の実例については以下のページをご覧下さい。
http://poem06.flib.fukui-u.ac.jp/~joho/info/blacktext/
教科書の「墨塗り」は音楽などの教科にも及んでいます。
例えば、国民学校低学年向け唱歌「モモタラウ」は、
挿絵も含めて全面削除です。
その理由は、歌詞を読めば分かります。
「ハタハ 日ノマル 青イ 海 小サナ フネガ ホ ヲ アゲタ」
犬・猿・雉を引き連れて鬼が島へ鬼退治に行く桃太郎の話は、
日の丸を掲げて戦地へ赴く内容に仕立てられていたのです。
その他、算数の教科書では何の必然性もなく
戦車や大砲の数を計算させる文章題が掲載されていたりと、
あらゆる機会を用いて子どもたちに軍国主義の精神を植え付けようとしていたことが分かります。
(注 国民学校
 太平洋戦争開始の1941年、小学校は国民学校に改編され、忠君愛国の精神に基づいて戦時体制を支える皇国民の錬成が図られた)

「墨塗り」を行ったのは子供たち自身です。
文部省からの通知に従って授業中に先生方が行わせました。
教科書を真っ黒にするというこれまでの教育を全面否定する行為に、
先生方は心を傷めたに違いありません。
そして、昨日まで国のために命を捧げよと言ってきた先生方(大人たち)の
手のひらを返した態度に、子どもたちも不信感を抱いたことでしょう。
戦後の新しい教育にふさわしい、新しい教科書が求められていました。
そうして作られたのが、文部省著作教科書だったのです。

(現在は検定制度に基づいて民間の出版社が教科書を発行していますが、
戦後間もなくは文部省が作成していました。
なお、現在でも高校「家庭」「工業」など需要の少ない科目については、
文部科学省著作教科書が発行され、使用されています)

ところで、前回、
1947年に作成された当初の学習指導要領(試案)は、
子どもたちの〈学習〉を指導することに主眼が置かれ、
学校の先生の創意工夫に委ねることで、
子どもたちを「学ぶことの主体性」に開かせようとしていたと
指摘しました。
その意図は、教科書にも反映されています。
例えば、小学校6年生用の社会「土地と人間」には、
巻末に「教師および父兄の方へ」として以下の一節が記されています。

「この本は、児童たちに、社会科学習の手がかりとなる若干の資料を与え、合わせてその学習のしかたを暗示している。その資料は、第六学年の児童に、ぜひ与えなければならない知識を精選して排列したものではない。それは範囲からいっても深さからいっても偏している。だから、従来の教科書と同じように考えてはいけない。むしろ、児童用の参考書の一種として取り扱っていただきたい。したがって、この本に書いてあることを、順々に説明したり、暗記させたりしては困る」(一部旧字体を改めた)

文部省が自ら教科書を作成しながら、
教科書「を」教えるのではなく教科書「で」教えることを
求めていたことに注目して下さい。
例えば、学習指導要領(試案)一般編にも次のような記述があります。

「これまでの教育は、その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても画一的になって、教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは、教育の実際にいろいろな不合理をもたらし、教育の生気をそぐようなことになった」(一 なぜこの書はつくられたか)

先生や子どもたちを「学ぶことの自主性」に開かせるためには、
中央集権的で画一的な教育のあり方を改めなければならない。
そのことを、上に立つ者が認識していれば十分です。

ひるがえって、
制度的に(のみ)民間の出版社に発行を委ねる現行の教科書検定制度が、
本当に民主的で子どもたちにとって良いものなのか、
考えさせられてしまいますが、
深入りするのは止めておきましょう。

2010-3-4

2010年一橋大学日本史解答例(私案)

1近世の農村では、農業の集約化・多角化による生産性
の向上を図るべく商品作物の栽培が行われるとともに、
生活必需品や生産に必要な金肥・農具などを購入するた
め銭を必要とし、年貢納入後の余剰生産物を換金した。
2幕藩も生産を奨励した多年性樹木の漆・茶・楮・桑。
3貨幣経済の農村への浸透は農民層の階層分化を促し、
幕藩の財源基盤である本百姓体制を揺るがした。また、
需要の高まりに伴う物価の上昇と、その反対に新田開発
などによる供給過剰から生じた米価の低迷は、支出の増
加と収入の減少をもたらし、幕藩の財政を窮乏させた。
4ア田沼意次。商業資本を利用した財政再建を目指した
田沼は、在方株の積極的公認を通じて、各地で成長する
在郷商人の掌握と運上・冥加収入の増収を図った。イ水
野忠邦。江戸における物価騰貴に対処すべく、水野は三
都商人に対して株仲間の解散を命じ、自由な商取引を促
すことで江戸への物資供給量の増加を図ろうとした。

* 昨年は内容(文化史)といい設問数(6問)といい意表を突かれたが、今年は社
   会経済史を中心とする一橋大日本史の王道に戻った感がある。問4の株仲間
   に関する問題も、出されるべくして出されたと言えるだろう。



1高橋蔵相の積極政策による重化学工業の発達と、低為
替政策による中国市場への綿布輸出の拡大とで、大都市
に労働者が集まった。一方で、農村部は昭和恐慌の後遺
症に苦しみ、政府の自力更生路線の下で困窮していた。
2日中戦争が長期化する中、総動員体制の下で労働者が
軍需産業に動員され、大都市への人口集中が加速した。
3戦線がアジア太平洋に拡大する中で、農村部では食糧
増産のため労働力の確保が図られる一方で、都市部から
成年層が軍事動員された。その後、戦局が悪化し大都市
への空襲が激化すると、住民や工場の疎開が行われた。
4農地改革は零細農家を増加させる結果となったため、
高度成長期には都市部との経済格差が拡大し、農村部か
らの人口流出が問題化した。こうした中、1961年に制定
された農業基本法は、経営の近代化や機械化・大規模化
による自立経営農家の育成を目的としたが、逆に兼業農
家を増加させる結果に終わり過疎化に拍車がかかった。

* 経済状況と人口の増減の関連を問う問題は1998年にすでに出題されている。
   問4は農地改革の負の部分に踏み込む必要がある。その点でYの解答は物足
   りない。



1内村鑑三不敬事件。第一高等中学校の講師であった内
村が、キリスト者としての内面的な良心から教育勅語に
最敬礼を行わなかったため、天皇や皇室に対する不敬で
あるとして非難の世論を浴び、辞職を余儀なくされた。
21937年に文部省は天皇を中心とした一君万民体制を説
く『国体の本義』を発行して学校に配付し、国民教化の
根本とした。また、1941年には小学校を国民学校に改編
し、国家主義的教育を推進して皇国民の錬成を図った。
3内地との一体化を図るため、日本語や神社参拝などの
皇民化政策が行われ、朝鮮では創氏改名も強制された。
4終戦直後、GHQによる教育の自由主義化指令を受け、
軍国主義者の教職追放や修身・日本歴史・地理の授業停
止が行われた。その後、1947年には、教育の機会均等や
男女共学を定めた教育基本法や、単線型の新学制を規定
した学校教育法が制定された。また、1948年には教育委
員会法が制定されて教育行政の地方分権化が図られた。

* 近代教育史は一橋大日本史での出題が十分に予想されていた。どの設問も、
   用語の定義的説明を問う一橋大日本史らしい問題だったと言える。

2010-3-3

2010年東京大学日本史解答例(私案)


第1問
奈良時代には律令制下で能力に応じて官位が与えられることが建前
であったが、しだいに形骸化して貴族の身分は世襲・固定されると
ともに、財政の悪化により官人への給与も滞るようになった。こう
した中で、中下級貴族は地方支配が委任され私的な富の蓄積が可能
となった受領への任官を望み、官吏の任免権を握る摂関家などの上
級貴族に物資の提供などを通じて家司として仕える道を選んだ。

* 中国の科挙のような人材登用制度が日本の律令制下でも機能していたのな
   らば、中下級貴族が摂関家に私的に仕える関係を結ぶ必要はなかったはずで
   ある。官僚制における能力に応じた昇進に触れているK以外の解答は、「奈良
   時代からの変化」に答えられていないのではないか。

 
第2問
A 気候が温暖な九州からは米が、商品作物の栽培が発達した畿内か
らは油が、養蚕や畑地に適した関東からは絹や麻が納められた。
B 年貢を現地で換金し京都の荘園領主に銭で納めるようになった。
C 貨幣経済が発達し、京都を中心に全国流通網が形成される中で、
年貢も商品として扱われ、財物が京都に集積するようになった。

* 近年の東大日本史では、地域的な多様性に目を向けさせる出題が目立つ。網
   野善彦氏の資料を引用してことを考えれば、Tのような解答もありなのでは
   ないか。しかし、Cに関しては今の段階で自信を持って解答を示すことがで
   きない。年貢が「商品」化される過程にもっと踏み込む必要があるように思
   う。

 
第3問
A 山師としては資金力があり佐渡金山・生野銀山などで鉱山運営の
経験を持つ北陸・畿内の商人が集まり、精錬職人としては石見大森
銀山などで灰吹法の技術を身につけた中国地方の者が集まった。
B 本百姓からの年貢徴収を財源とする藩にとって、費用のかかる三
都以外に領国内で独占的に割高で取引できる市場を確保できた。

東大日本史は時おり系統的・網羅的に(のみ)学習してきた受験生をあざ笑う
   かのような問題を出題することがあり、そうした野性味あふれる問題を僕は
   結構気に入っている。Bは諸藩の財政が本百姓体制を基盤としていることを指
   摘しなければ論旨として十分ではない。合格点はSのみだと思う。


第4問
条約改正交渉の失敗や朝鮮での日清間の対立は民権派内でも国権論
を高めさせ、三大事件建白運動での外交失策を求める動きとなって
現れた。また、井上外相の極端な欧化政策に対する反発から、徳富
蘇峰は国民の生活向上を求める平民的欧化主義を唱えたが、一方で
日本の伝統的な精神や文化を称揚する三宅雪嶺らの国粋主義も台頭
し、日本美術を再評価する機運の中で東京美術学校が設立された。

* 1880年代の動向は東大日本史の空白地帯であったが、ついに出題されたとい
   う感じである。自由民権運動の展開と国権論の高まりは、教科書ではきちん
   と関連づけて説明されていないので、自分で論旨を組み立てる必要がある。
   というよりも、様々な要素を関連づけて多面的に考察する学習が、東大日本
   史では求められることを再認識させられた。


2010-3-1

社会科の誕生と〈学習〉指導要領

前回の話の続きです。
僕は、生活綴り方=作文という先入観があったものでしたから、
無着先生はてっきり国語の先生だと思っていたのですが、
社会科の教師として山元中学校に赴任したということを、
『山びこ学校』のあとがきを改めて読んで気づき、驚きました。
(もっとも、山間の小さな学校で全科目を教えなければならなかったのですが)

社会科は、戦後、
アメリカ教育使節団報告書(第1次・1946年)に基づいて、
民主教育の一環として鳴り物入りで創設された科目です。
戦前には、歴史・地理・政治とバラバラの科目で行われていました。
しかし、一つには知識偏重であるという批判と、
(予備校講師として耳が痛いです)
もう一つには軍国主義の片棒を担いだという批判から、
(戦前の日本史は非科学的な皇国史観に基づいて教えられ、
教科書でも天皇に関する記述は最高敬語を用いるという徹底ぶりでした。
また、地理はそもそも軍事的・地政学的な色合いの強い科目です。
地図の記号って、湿田はぬかるんで兵が進めないとか、
広葉樹林は冬に落葉して身を隠せないとか、
軍事目的で作られたものなのですよ)
終戦後にGHQによる教育の民主化指令を受けてこれらの授業を停止し、
民主社会を担う公民的資質を養うという目的で社会科が創設されたのです。

つまり、単に知識として歴史や地理を学ぶのではなくて、
それらの知見を幅広く集約し、民主的な社会を創造する力を養おうというのが、
社会科の本来の目的だったのです。
現在の学習指導要領においても、次のように目標が記されています。
「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し、我が国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」
(平成14年4月施行・中学校学習指導要領・第2節社会・第1目標)
無着先生は戦後の社会科教師の一期生でした。
何をどう教えれば良いのか、すべて手探りで始めて、
そして到達したのが『山びこ学校』だったのです。
それは、社会科の理念を見事に実現したものと言えるでしょう。
子どもたちは、自分たちの生活を直視することを通じて、
日本社会や農業の抱える問題点にまで到達していたのですから。
(前回紹介した「学校はどのくらい金がかかるものか」はその一例です)

ところで、『山びこ学校』を改めて読み直すと、
あとがきに無着先生が次のような一文を書き記していて驚嘆しました。
「社会科は、「教科書で勉強するのではない」といい「社会の進歩につくす能力をもった子供にしなければならない」という文部省の考えの深さに驚いたのでした。」
驚くのはこちらの方です。
今の学校の先生は、学習指導要領にがんじがらめにされています。
文部省(現文部科学省)が「教科書で勉強するのではない」なんて言うとは、とても信じられません。
そこで、1947年に初めて作成された学校指導要領を調べてみました。
(なお、過去の学習指導要領は、 NICER教育情報ナショナルセンターのホームページで閲覧できます)
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s22ej/

まず、第一に注目すべきは、当初の学習指導要領には、
表題に(試案)の2文字が書き添えられていた、ということです。
終戦直後、国も新しい民主的な教育に向けて、試行錯誤の段階でした。
ですから、これをやれ、というものではなく、
一つの提案をして、後は先生の自由に任せようというのが、
本来の学習指導要領だったのです。

序論にはこう記されています。
「もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。しかしそういう目標を達するためには、その骨組みに従いながらも、その地域の社会の特性や、学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて、それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え、その方法を工夫してこそよく行くのであって、ただあてがわれた型のとおりにやるのでは、かえって目的を達するに遠くなるであろう。」
先生自身を「学ぶことの主体性」に開かせようとした意図が読み取れます。

そして、第二に注目すべきは、
「学習指導要領」という言葉の意味です。
僕はこれまで、なぜ〈学習〉指導要領なのか、考えてもみませんでした。
その意味、その目標は、明解にこう書かれています。
「児童や青年は、現在ならびに将来の生活に起る、いろいろな問題を適切に解決して行かなければならない。そのような生活を営む力が、またここで養われなくてはならないのである。それでなければ、教育の目標は達せられたとは言わない。」
学習指導要領とは本来、
学校の先生が何をどう教えるかという手引きではなく、
子どもたちをいかに〈学び〉へと導いていくかという視点で作られた、
まさに〈学習〉指導要領だったのです。
そして、子どもたちを「学ぶことの主体性」に開かせるものは
先生の「学ぶことの主体性」ですから、
2つの注目点はつながっています。

この学習指導要領が今もあれば、
僕が社会科学編で「16.超極私的教育論」なんて書く必要も、
ウチダ先生が沓をはかせる話を何度も語る必要もないのでした。
(11月29日付ブログ参照)

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【相澤 理】
(AIZAWA OSAMU)
職業:予備校講師

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相澤 理