2010-2-22

「山びこ」は今も聞こえる

「雪がコンコン降る。
人間は
その下で暮らしているのです。」

1951(昭和26)に出版されて爆発的な売れ行きを記録し、
戦後教育の金字塔として今にも名を残す、
一山村の中学生の詩作文集である『山びこ学校』。
(現在も岩波文庫・角川文庫から発行されています)
その冒頭に掲載されているのが、
「雪」という題名のこの詩です。

『山びこ学校』は、今でも僕にとって文章の教科書であり続けています。
そして、たびたび読み直して、自分は誠実に言葉と向かいあってきたか、
自戒の材料としています。

終戦直後の1948(昭和23)年、
山形師範学校(現在の山形大学教育学部)を卒業して、
山元村(現在は上山市に編入)という谷あいの小さな村の小中学校に赴任した
青年教師の無着成恭先生(1927〜)は、
受け持ちとなった中学生1年生43名を見て愕然とします。
計算ができない、漢字の読み書きができない、
中には、自分の名前を漢字で書けない生徒もいるほどの
学力の低さだったからです。

その理由は、戦争中に満足に教育を受けられなかったこともありますが、
村の貧しさが大きな背景として存在しました。
1929(昭和4)年、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに発生した
世界恐慌は、日本経済にも波及し、農村を直撃しました(昭和恐慌)。
米・繭などの農産物の価格が、半値近くまで下落したのです。
それに追い打ちをかけたのが、
1934(昭和9)年に発生した東北大冷害です。
カボチャや大根の葉で餓えをしのぎ、
泣く泣く娘を身売りする(TVドラマ『おしん』の世界です)。
無着先生が担任となったのは、
まさにその頃生まれ、戦争に翻弄されて学校にも通えなかった子どもたちでした。

読み書きも計算も満足にできない子どもたちを前に、
いったいどうやって指導すれば良いのかと悩んだ無着先生は、
戦前から行われていた生活綴方(つづりかた)を思い立ちます。
生活綴方とは、
子どもたちに自らの生活のありのままを書かせることを通じて、
現実を、自己を見つめ直させようという教育実践です。
(小学校の時にさんざん書かされた作文って、
もともとはそういう意味を持っていたんですよ)

無着先生は、山元村の生活の厳しさ・貧しさを子どもたちに直視させ、
それがどのような要因によって生じているのかを
徹底的に調べさせ、考えさせました。
例えば、『山びこ学校』に収録されている
「学校はどのくらい金がかかるものか」というグループレポートでは、
教科書代や文具代にも事欠く家計の状況を出発点に、
山元村での1戸あたり平均収入額や村の総予算額などを調査し、
他村の予算に占める学校予算額の割合などと比較しながら、
「私たちの学校に、もっと予算を多く、せいぜい二〇%以上でなければ、うまい学校教育はできないのじゃないでしょうか。」
と結論づけています。
(僕は、こうした実践に現在行われている「総合的な学習の時間」の
あるべき姿を見いだしているのですが、それは次回以降考えます)

こうして書きためられた生活記録としての作文や詩を、
無着先生がガリ版刷りで発行したクラス文集「きかんしゃ」は、
ある生徒の作文「母の死とその後」が文部大臣賞を受賞したこともあって
東京の出版社の目にとまり、
『山びこ学校』として発行されると評判が評判を呼んで、
12万部という当時の大ベストセラーとなったのでした。

はじめに紹介した「雪」の作者、石井敏雄君は、
2歳のときに父と死別し、母とも生き別れとなって、
叔父夫婦の下で育てられました。
敏雄君は中学に上がるころになると炭焼きの仕事に駆り出され、
ほとんど学校に通えませんでした。
(規定の登校日数の半分にも満たなかったそうです。
『山びこ学校』には序文として、
「この本を読んでくれる全国のお友だちへ」という、
生徒たちが書いた一文が載せられていますが、そこには、
「私たちの学校には、病気で休む人なんか、さっぱりいないくらいです。(中略)
毎日二割ぐらい休みますが、ほとんど家の仕事でやすむのです。」とあります。
子どもは家の貴重な労働力、学校どころではないというのが、
山元村の、いや、終戦直後の状況でした)

久しぶりに学校に登校し、降り出した雪を見て書いたのがこの詩でした。
「その下で」がどのような境遇であったのか、よく分かると思います。
そして、それが言葉に凝縮されているからこそ、
この詩はずっしりとした手応えのある重みをもって
私たちの心に迫ってくるのです。

人に届く言葉、人の心を打つ言葉というのは、
自分を見つめ直し、思いを深く掘り下げて、
身体の底からわき上がってきたような言葉(だけ)です。
真正面から現実と向かい合い、自分と向かい合うことから、
本物の言葉は紡ぎ出される。
それは、戦後からはるかに遠ざかった現代においても変わりありません。
自分は言葉と誠実に向かい合っているかを問うことは、
自分はひたむきに生きているかと問うことでもあるでしょう。
だから、『山びこ学校』は、
文章の教科書であるだけでなく、人生の教科書なのです。

2010-2-15

監視カメラは心を覗く

江戸時代に行われていたキリシタンに対する踏み絵(絵踏制度)を、
僕は前からおかしいと思っていました。
僕はクリスチャンではありませんし、
特定の宗教を信仰しているわけでもありませんが、
もし神やイエスを信じているのならば、
その信仰ゆえにためらいもなく踏む、と思うからです。

踏むという行為によって、内面的な心が揺らぐとでも言うのでしょうか。
キリスト教は、神の愛(アガペー)による赦しの宗教です。
神は無償に降り注ぐ愛で私たちの罪を赦す。
イエスも自らの偶像を踏むことを赦して下さることでしょう。
キリスト教のことが分かれば分かるほど、
踏み絵は改宗を促すどころか、信仰心を確認する行為にさえ思えてきました。

ところが、実際に幕府が行っていたことは、もっと本質的なものでした。
1635年、3代将軍徳川家光は、全国的な信仰調査を行います。
そのときに用いられたのが、南蛮起請と呼ばれる誓願書です。
これは、キリシタンからの転宗者に再び戻らないことを誓わせたもので、
そこには、もしキリシタンに戻ったら、
神罰を蒙り地獄の苦しみを味合わされるとの罰文も書き記されました。
キリシタンの言葉でキリシタンの神に誓わせた点が秀逸です。
幕府は、キリシタンたちを踏み絵という外見上の行為だけではなく、
内面的な信仰心をも根こそぎ支配しようとしていたのでした。

権力の支配は心の内面にまで及ぶ、
だからこそ、日本国憲法は信教の自由について次のように規定するのです。
「第二〇条 ①信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
信教の自由とは、国家権力によって心を支配されないことである、
このことには注意を要します。

さて、今回はなぜこんなことを書いているかというと、
先週、劇作家の鴻上尚史さんが主宰する
劇団「虚構の劇団」の公演『監視カメラが忘れたアリア』を観て、
監視カメラの眼は心の内面にまで及ぶものなのかについて、
考えさせられたからです。

いま、街中の至るところに防犯カメラ(監視カメラ)が設置されています。
別に良いではないか、心の中まで盗み見されているわけでもないし。
しかし、踏み絵は信仰という心の内面にまで及ぶものでした。
もしかして、身の安全という理由で防犯カメラ(監視カメラ)を受け入れる、
そのこと自体が、私たちが知らぬ間に権力を心の内面に受け入れていることを
意味しているのかもしれません。
(「知らぬ間に」ということが、本当はもっとも恐ろしいことです)

フランスの哲学者ミッシェル・フーコー(1926〜1984)は、
近代社会において権力者が狂気を排除しながら社会規範を形成し、
個人を規律化していく過程を描きました。
権力が作り出した社会規範から外れた異質な存在、それが狂気です。
例えば、犯罪者は社会規範を乱しますから、排除しなければなりません。
そのために作られたのが監獄です。

近代の監獄では、パノプティコン(一望監視装置)と言って、
おいてすべての囚人を監視できる位置に監視所が設置されました。
ちょうどマジックミラーで向こうからだけこちらが見える状態です。
ですから、監視者がつねに監視しているとは限りませんが、
囚人はつねに監視されていると思って行動しなければなりません。
それゆえ、囚人たちは監視されているかに関係なく自らを律していきます。
これが、フーコーの指摘した〈規律の内面化〉です。

さて、このように規律を心の内面に刷り込まれる(しかも自発的に)のは、
囚人だけではありません。
権力者は、社会規範から外れた者を生み出さぬよう、
人々を規律化するための施設を作り出しました。
それが、学校であり、軍隊です。
学校では、他者と協調行動が取れるように教育し、
軍隊では上司の命令に従って動くよう訓練する。
こうして、人々は「知らぬ間に」社会規範を受け入れ、
自発的に規律を内面化していくのです。

話を防犯カメラ(監視カメラ)に戻しましょう。
防犯カメラ(監視カメラ)もパノプティコンと同じような装置であることに
気付きませんか?
カメラの向こうで誰かが見ているかどうかに関係なく、
見られていることを前提として行動する。まさに〈規律の内面化〉です。
しかも、防犯カメラ(監視カメラ)は、
社会規範から外れる者を排除するという形で、
「内なる野蛮」をあらわにしていることにも注意しなければなりません。
(「内なる野蛮」については12月28日付ブログ参照)

権力の支配は心の内面にまで及ぶ。
私たちは、知らぬ間に、しかも自発的に、権力に従っている。
このことに、私たちはもっと自覚的であるべきでしょう。

2010-2-15

ご質問にお答えします3

kさんから、グローバル経済に関する質問をいただきました。
ありがとうございました。

まず、経済のグローバル化が
リーマン・ショックを世界に波及させたという点については、
僕もその認識で間違っていないと思います。
各国の市場が直結し、
国境を越えてお金や人、そして情報が動くようになったことで、
アメリカの本当に一部の人が浮かれていたバブルの影響を、
世界中の人が受けてしまったわけです。
(社会科学編「3.グローバル化する経済」参照)

ただし、竹中平蔵を筆頭とする新自由主義のみなさまは、
世界経済には自由競争を阻害する障壁がまだ残されていないため、
市場がちゃんと機能していない結果だと説明するのだと思います。
(このあたり、別冊p.23「新自由主義」の項目で書きましたが、
新自由主義者のみなさまは、
経済が経済以外のもの(コミュニティ)に支えられて動いているということを、
理解していないか無視しています。
市場に上がらない「自由」を、なぜ認めないのでしょうか。)

次に、東アジア経済共同体などの地域経済統合が
グローバル経済から日本経済を守る役割を果たすとの見方ですが、
これは半分正しくて半分間違っているとしか言いようがありません。
というのも、現代世界において形成されつつある地域経済統合は、
両義的な性格を持つものだからです。

EPAやFTAは、WTOドーハ・ラウンドが不調に終わったことを受けて、
利害の一致した特定国間で自由化を進めていこうというものです。
ですから、本来は経済のグローバル化を志向しています。
しかし、実際のところは、
協定外の国には関税を残すなど排他的な性格の強いものとなっています。
EUなんて、出発点のECSCが戦争が
物理的に不可能な共同体の形成を目的としていたはずなのに、
今ではアメリカ経済への対抗という意味合いが全面に出ていますよね。
ASEANやAPECの構想も同様です。
そして、その内部でも激しい主導権争いが繰り広げられています。

以上が半分正しくて半分間違っているという理由ですが、
僕としては、地域経済統合うんぬんよりも
経済を下支えするネットワークの形成の方が急務ではないかと思います。
ODAしかり、人間の安全保障しかり。
経済の問題は経済では解決できない。
それを経済で解決しようとするからどんどんおかしくなっていく。
これが僕の見解です。

ブログは基本的に月曜更新ですので、
タイミングによって1週間近くお待たせすることがありますが、
それでもよければご質問をお寄せ下さい。

2010-2-8

イワシの頭に身を委ねる

中世の説話集『宇治拾遺物語』に、
「尼、地蔵を見奉る事」という一節があります。

今となってはもう昔のことですが、丹後国に老いた尼がおりました。
尼は、地蔵菩薩さまが夜明けごとに辺りを歩き回っていらっしゃる
という噂を小耳にはさんで、地蔵さまのお姿を拝見したいと思い、
毎朝のように辺りをうろうろ歩いていたそうです。

あるとき、ばくちに打ちほうけて着ぐるみ剥がされた男が、
さまよい歩く尼を見つけて、
「寒いのに何をなさっているのですか」とたずねたところ、
尼は「地蔵菩薩さまが夜明けに出歩いていらっしゃるというので、
お会い申し上げたいと思って、このように歩き回っているのです」
と答えました。

ばくち打ちは、良いところにカモがやってきたと思い、
「地蔵さまがお歩きになっている道なら私が知っています。
さあついていらっしゃい、会わせてさしあげましょう」とうそぶきました。
それを聞いて、尼は「ああ、なんてうれしいことかな。
地蔵さまの所へ私を連れていって下さい」と大喜びで言います。
そこで、ばくち打ちはシメシメと思いつつ、
「私に物を下され。そうしたらすぐにでも連れていって差し上げよう」
と言いました。
尼は「この着ている服を差し上げよう」と即答でしたので、
ばくち打ちは「さあいらっしゃい」と隣の家に連れて行きました。

ばくち打ちはその家の親と知り合いで、
子どもの名前が「ぢぞう」だということを知っていたのです。
喜び勇んでついてきた尼の前で、
ばくち打ちが親に「ぢぞうはどうしてるかい?」とたずねたところ、
親の答えは「遊びに行った。もうすぐ帰ってくるだろう」とのことでした。
(明け方なんですけどね)
そこで、ばくち打ちは尼に向かって、
「さあ、ここです。ぢぞうさまがいらっしゃる所は」と言うと、
尼は大喜びで紬の着物を脱いでくれたので、
ばくち打ちは受け取るやいなやその場を立ち去りました。
(子どもの「ぢぞう」が帰ってきたら嘘がバレてしまいますから)

「地蔵さまを拝見したい」と言って座りこむ尼を見て、
親は意味が分かりません。
「どうしてうちの息子なんか見たいと思うのだろう」
そう思っていたところ、十歳ほどの子どもが帰ってきたので、
「これがうちのぢぞうです」と紹介しました。

尼はその姿を見つけるや、
無我夢中で転がるようにひれ伏して拝みこみ、地面に頭をつけました。
子どもは、持っていた棒切れで手遊びのように額を引っ掻くと、
額より顔の上まで裂けてしまいました。
そして、その裂けた中から
何とも言えずすばらしい地蔵さまのお顔をお見せなさったのです。
尼が頭を上げげると(尼はずっと深々と頭を下げていました)、
地蔵さまが立っていらっしゃったので、
涙を流して拝み申し上げて、そのまま極楽に往生したそうな。

そして最後に、
「心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけりと信ずべし」
(心にさえ深く念じていれば、必ず仏様も姿をお見せなさると信じなさい)
と記されて、締めくくられています。

この説話が(僕の)心を打つのは、
老尼の疑いなき信心の深さです。
そこには、自らの身を投げ出す覚悟がなければなりません。

親鸞の弟子である唯円が著わした『歎異抄』にはこうあります。
「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて(信じて)、信ずるほかに別に子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるる(生まれる)たねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされ(だまされ)まひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」

念仏が、極楽浄土に往生する素なのか地獄に堕ちる業なのかは分かりません。
しかし、親鸞は、師匠の法然にだまされて、
念仏を唱えて地獄に堕ちたとしても、決して後悔はしないと言います。
それは、自分の力では救いの道を開くことができない以上、
阿弥陀仏にすべてを委ねて、念仏を唱えるしかないからです。

親鸞は、悪人正機の教えを説きました。
自らの罪深さを自覚した者(悪人)こそ救われる、というものです。
自らの非力を思い知る、そこに、すべてを投げ出す覚悟が生まれます。

老尼が見せた姿は、
「イワシの頭も信心から」と軽々しく言えるようなものではありません。
イワシの頭にさえ身を委ねることのできる信心の深さなのです。

2010-2-1

縄文の祈り

三内丸山遺跡(青森県)の名前は、
日本史を選択していない人も聞いたことがあると思います。
500人近くの人たちが集団で生活していたと考えられ、
掘立柱の建物や人工的に造成されたクリ林が発見されるなど、
〈貧しく未開な縄文時代〉というイメージを一変させた遺跡です。

その集落の中心から外部に向かって延びる道路の両側には、
高さ約2メートル・幅約420メートルにわたって墓地が作られていました。
まるで死者の魂に囲まれて中へ入って行くかのようです。
さて、ここで注目すべきは、
乳幼児や死産した胎児の亡骸は、成人とは別の場所に、
特別な土器にいれて埋葬されている、ということです。
どんなに〈豊かな縄文社会〉というイメージが作られようとも、
過酷な自然環境であったことに変わりはありません。
亡骸の大きさなどを調べると、
4人に3人が15歳になる前に亡くなっていたと考えられます。
だからこそ、今度こそ元気に育って成人してほしいとの願いを込めて、
子どもを手厚く葬ったのでしょう。

魂の再生を願う気持ちは、
縄文時代の一般的な葬法にも現れています。
縄文時代には、屈葬と言って、
足を折り曲げて膝小僧を腕で抱え込むようにして埋葬されました。
遺体を強く縛ったり、お腹に石を抱えさせたりしたものも見られます。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/4/4-15.html


なぜ屈葬が行われたのか? その理由として、
穴を掘る労力を省く(足を曲げれば直径1メートルほどの穴で済みます)、
死霊が活動して生者に災いをもたらすのを防ぐ、
といったことが従来は言われてきました。
しかし、生活空間の出入り口を取り囲むようにして、
荘厳に作られた三内丸山遺跡の墓地を考えれば、
そのような死者の扱いは縄文人に似つかわしくありません。
それよりも、僕が魅力を感じるのは、
再生を願って胎児の姿にして大地に返したという説です。
例えば、環状列石(ストーンサークル)で知られる大湯遺跡(秋田県)も、
共同の祭祀場であったと考えられています。

縄文時代のゴミ捨て場とされる貝塚も、
〈再生への祈り〉という観点から捉え直すことができます。
自然からいただいた恵みを、自然に再び返す送り場。
貝塚から人骨が発見されるのも決して不思議ではありません。
縄文人は亡骸をゴミ同然に扱った--違います。
人間の亡骸も動物の骨や貝殻も、同じ生命あるものとして、
縄文人は自然に送り返したのです。

生命あるものに魂を看て取り、再生への祈りを込める。
女性をかたどった土偶は、縄文人の豊かな精神世界を象徴する人形です。
さまざまなデザインの土偶がありますが、
共通して乳房や下半身をふくよかに成形していることから、
生殖を祈る祭祀に用いられたと考えられます。
(なお、土偶は完全な状態で出土することはなく、
ほとんどの場合、足や腕を打ち欠いた痕があります。
最近の、CTスキャンなどによる解析では、
足や腕の部分は最初から造りが脆いことが確認されているそうです。
恐らく、祭祀が終了した後に、
土偶に宿ったマジカルな生命を自然に送り返すため、
一部を打ち壊したのだと考えられています)

子どもを背負ったり抱いたりしている土偶(東京都宮田遺跡など)は、
わが子への慈しみの気持ちを強く感じさせます。
また、神奈川県中屋敷遺跡から出土した土偶形容器は、
中に乳幼児の遺骨を納めるために用いられたものです。
土偶にも〈再生への祈り〉が込められていたことは間違いありません。

掌を合わせた、お産の様子と考えられる合掌土偶(青森県風張1遺跡)
現代的なデザイン性も感じさせる縄文のビーナス(長野県棚畑遺跡)
宇宙人のような容貌の遮光器土偶(青森県亀ケ岡遺跡)
『国宝土偶展』(東京国立博物館)で一同に会した、
全国各地の表情豊かな土偶を見ながら、
縄文人たちの〈祈り〉の強さを感じました。


僕に『小論文時事テーマとキーワード』を書かせようなどという、
前代未聞、罪業のかぎりを尽くした企画に許可を与えた、
旺文社の高校文系グループのマネージャーはどうお感じになったのでしょうか?
 

絶賛発売中

時事テーマとキーワード
--小論文--
時事テーマ

キーワード
《社会科学編》
《看護医療編》

プロフィール

【相澤 理】
(AIZAWA OSAMU)
職業:予備校講師

カレンダー

2010 / 2

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28





Blog Owner

相澤 理