2009-12-28

「内なる野蛮」を見つめて

今年(2009)、100歳を超える人生を全うして亡くなった
20世紀最大の「知の巨人」とも言えるレヴィ=ストロースは、
ユネスコから刊行された小冊子『人種と歴史』に、
次のように記しています。
「野蛮人とはなによりも先ず、野蛮が存在すると信じている人なのだ」

レヴィ=ストロースは、ブラジルなどで現地調査を行い、
ヨーロッパ人が「未開」「野蛮」と見なしてきた非西洋の社会にも、
西洋の社会に匹敵する高度な思考があることを見出した文化人類学者です。
ヨーロッパ人は、数式や記号を用いた抽象的な思考を得意とします。
これに対して、非西洋社会の人々は、
動物や植物といった具体的な対象に即して物事を考えます。
ヨーロッパ人はこれを幼稚な思考法と見なしていました。
しかし、レヴィ=ストロースは、
それが世界を説明するきわめて体系的な思考であることを読み取り、
これを「野生の思考」と名付けたのです。

自分とは異なるものを受け入れず、
野蛮だと決めつける、その心こそが野蛮である。
レヴィ=ストロースの冒頭の言葉は、
異文化共生と言うならば、まず自らの「内なる野蛮」と向き合うことの
必要性を示唆しています。

「内なる野蛮」--僕はここで、アメリカの批評家サイードが指摘した
オリエンタリズムに思いを馳せます。
ヨーロッパ人は、
自らの文化こそが最も優れていると信じて疑っていませんでした。
これをエスノセントリズム(自分化中心主義)と言います。
そして、その裏返しで、
東洋人に野蛮で劣っているというイメージを押し付けてきました。
そのような、無知と無理解に基づく偏見を、
サイードはオリエンタリズムと批判したのです。
しかも、その偏見はヨーロッパ人が自らの内に認めたくない資質を、
東洋人に投影したものであるとサイードは指摘しています。
外部に見出す野蛮とは、「内なる野蛮」にすぎないのです。

(なお、ここで僕が「内なる野蛮」と呼んでいるものは、
日本の脳科学者・養老孟司が言うところの「バカの壁」に
相当するものと考えられます。
「バカの壁」とは自らの内にあるのです。
それを、あたかも外部の他者が「バカの壁」として存在しているかのように
誤読させ、ベストセラーにしてしまう養老さんはズルイと思いますが、
本論から外れるのでこれくらいで止めておきます)

「内なる野蛮」が近代において引き出されたことを分析したのが、
フランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノです。
2人はユダヤ人であったことから第二次世界大戦中にアメリカへ亡命し、
戦後、フランクフルト社会研究所を再興して、
ファシズムや近代理性のあり方について鋭く分析しました。
共著『啓蒙の弁証法』において、
文明の進歩が人間の内なる自然としての野蛮を露にしたと指摘しています。
それは、近代科学が核兵器を生み出したことに象徴されるでしょう。

面白いことに、今回紹介した4人は、
レヴィ=ストロース、ホルクハイマー、アドルノの3人がユダヤ人、
もう1人のサイードがパレスチナ人です。
対峙し続ける両者から、「内なる野蛮」の認識を促す思考が産生される。
それは、異なる他者と向き合ってきたからこそ可能だったのかもしれません。

ノーマライゼーションの実現には、
自らの「内なる野蛮」と向き合うことが必要なのです。

補足 ノーマライゼーション
 年齢・性別・能力・国籍・宗教などの違いを乗り越えて、すべての人が同じ
 生活者として同じ生活空間で共 生できる社会を目指す考え方のこと。
 そのために求められるのが、バリアフリー化やユニバーサルデザインなどの
 環境の整備とともに、自分とは異なる人を受け入れるホスピタリティの心である。

2009-12-20

「核なき世界」への本気度

 インド独立運動の指導者マハトマ・ガンディー(1869〜1948)は、
非暴力・不服従運動の実践により、
イギリスからの独立を勝ち取ったことで知られますが、
その姿勢は、真理(正しいこと)を実現するためには、
正しい手段を用いなければならない、
そして、正しいことを実践していれば、
立場の違う人・今は対立する人からも賛同を得られる、
という信念に支えられたものでした。

 宗主国イギリスは、言論や集会の自由を抑圧したり、
インド人たちの手になる生産物を奪ったりと、
暴力という非真理の手段で植民地支配を行っていました。

 これに暴力で対抗すれば、鏡の写し身になってしまいます。

 ガンディーは、自分たちは非暴力という真理の手段を用いることで、
相手(イギリス人)にも誤りを悟らせることができると考えたのです。
 
 1930年、ガンディーは「塩の行進」と呼ばれる運動を行いました。
 塩税法(塩の専売によるイギリスの利益の独占)に反対の意思を示すべく、
内陸部から海岸まで380キロ近くを歩くというものです。

 カースト制度の下での身分の違いを乗り越え、
団結するという意味では、生活必需品である塩を選んだのは正しい選択だったと言えましょう。

 78人でスタートした行進は、約1か月後、
ゴールの海岸では数千人になっていました。
 
この運動がガンディーを世界的に知らしめるきっかけとなって、
第2次世界大戦後の1948年、インドは独立を勝ち取るのです。
 
 ガンディーの非暴力主義に感銘を受け、
アメリカで黒人解放運動を指導したのが、
マーティン・ルーサー・キング(1926〜1968)です。

キングは牧師として派遣されたアラバマ州モンゴメリー市で、
1955年にバス=ボイコット運動を行いました。

ある時、黒人女性が白人にバスの座席を譲らなかったことを理由に、
逮捕されるという事件が起きました。

 キングは、バスへの乗車拒否という手段で反対の意を示すことを提案します。
 (バスに乗る人がいなければ市のバス運営は成り立たなくなります)
 黒人たちは来る日も来る日も歩きました。

 小さな子も老いた人も歩きました。

 寒い日も雨の日も歩きました。

 しかし、その顔はどれも喜びの笑顔で満ちあふれていたと言います。

 乗車拒否は1年以上続けられ、
ついに市の人種隔離政策は憲法違反との判決を勝ち取りました。
 
 このバス=ボイコット運動をきっかけに、
全米の黒人解放運動の指導者となったキングは、
1963年、首都ワシントンで「仕事と自由のための大行進」を行います。

 これには、黒人だけでなく、白人やさまざまな人種の人も参加しました。

 正しい手段を用いて訴えれば、あらゆる人から支持を得られるという、
ガンディーの信念が実現した瞬間でもありました。

 キングは行進の目的地・リンカーン祈念堂の前の広場で、
「私には夢がある」から始まる有名な演説を行います。

 キングの語った夢とは、
かつての奴隷の子どもと主人の子どもが同じテーブルにつくという夢、
すべての人が肌の色ではなく人格によって評価されるという夢です。

 自由で平等な世の中の実現を望んだのが、キングでした。
 
 大行進から46年経過し、アメリカでは黒人初の大統領が誕生しました。

 オバマは、黒人だけでなく、
あらゆる人種・あらゆる階層の人々の支持を受けて当選しました。

 アメリカ国民がオバマに熱狂したのは、
彼の姿にかつてのキングを見たからです。
 
 正しいことの実現には正しい手段を。
「核なき世界」を訴えた演説は、
だからこそ感銘を与えました。

 しかし、ノーベル賞受賞演説は私たちの期待を裏切るものでした。

 戦争が国家権力による暴力である以上、
「正しい戦争」も「良い戦争」もありません。

 正しくない手段で訴えることは、正しくないのです。

 先週までデンマークのコペンハーゲンで開かれていた第15回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)においても、
アメリカの独善的な姿勢が見られました。

 オバマ大統領に変わっても、
アメリカは何も“change”しなかったのかもしれません。

2009-12-14

「都市でもやっていける民」ユダヤ人

荒尾さんからユダヤ人問題についてのご質問をいただきました。
ありがとうございました。以下に私見を述べたいと思います。

まず、安部公房『内なる辺境』について。
ユダヤ的=遊牧民的=都市的という安部氏の捉え方は、
なるほどなと思いました。
ユダヤ人は、「祖国なき民」として、
金融・メディアといった実に都市的な業種を営んできたのですから。
「ご質問にお答えします2」で、
自然や人間関係からの断絶を都市の特徴として指摘しました。
そうした根無し草的な状況において、
ユダヤ人が人と人を結びつける仕事についてきたというのは、
 (金融もメディアもそうです)
 それら以外の職種から閉め出されてきたということを抜きにしても、
非常に意味ありげなことのように感じます(後述)。

ここから、僕の関心は、
「ユダヤ人はなぜ都市でやっていけるのか」というところに向かいます。
現代人は濃密な人間関係から切り離され、孤独で不安であるがゆえに、
他人の評価を基準に行動する他人指向型が支配的であると指摘したのは、
アメリカの社会学者リースマンです(『孤独な群衆』1950)。
何をするにも他人の目を気にし(「空気を読む」とはそういうことです)、
マスコミの流す情報や口コミに振り回される現代の日本人は、
都市で生活していても、きわめて農耕民的なのかもしれません。
しかし、農耕民的日本人のひとりである僕から見たとき、
人間関係から切り離されてもやっていけるユダヤ人の都市的な性格に、
多少のうらやましさを感じます。

ユダヤ人の、そうしたある種の強さは何に由来するのか?
自分たちが神から「選ばれた民」であるという意識にあるような気がします。
ユダヤ教の他の宗教にない大きな特徴は、「神との契約」という点です。
唯一なる神ヤハウェは、自分たちを「神の民」として選ばれた。
だから、神から与えられた律法(きまり)は絶対に守らなければならない。
ユダヤ教ではそう考えます。
(ちなみに、なぜ自分が選ばれたのかは分かりません。
そうしたアイデンティティに関わる謎が、ユダヤ人の思索を深めさせ、
多くの科学者・哲学者を生み出す原因になっているように思えます)
そのような選民の意識と、他民族からの迫害の歴史が、
ユダヤ人の結束を固めてきました。
現在でも、各業界におけるユダヤ人の世界的なネットワークは圧倒的です。
自分たちは神ヤハウェの下で結ばれている。
そうした意識があるからこそ、
直接は人と人の結びつきのない都市でもやっていけるのではないか。
ユダヤ人が金融・メディアといった職種で活躍しているということも、
この点から捉え直したら面白いかもしれません。
(神から「選ばれた民」ユダヤ人が、現代人の人間関係を修復する)

最後に、パレスチナ問題に関しては、
他の地域紛争と同様、「国家という病」という側面から見るのが、
一番分かりやすいかと思います(社会科学編参照)。
ただし、なぜユダヤ人までが「国家という病」にかかったのか、
これは疑問として残ります。
ユダヤ人は「祖国なき民」でしたが、
それは「祖国がなくてもやっていける民」ということだったのですから。
この点については、裕福なユダヤ人の多くは、
シオニズム(祖国建設運動)に賛同していないということと
関係しているように思います。
僕は、社会科学編「17.格差社会を生きる」で、
現代の日本社会では経済的弱者がコミュニケーション弱者となっている
と述べました。
絆からふるい落とされたユダヤ人の低所得者層(だけ)が、
イスラエル国家の建設に向かった。
しかし、この推論は僕の想像(妄想)にすぎません。

ということで、ご質問の趣旨に沿うものであったか、
まことに心許ないのですが、今の僕に答えられるのはこれくらいが限界です。
ですが、いろいろ考えるきっかけとなったので、有難うございました。
ということで、どんな質問が来ても、
最終的には僕の興味関心に向かいますが、
それでも良かったら何でもお寄せ下さい。

2009-12-7

「子ども手当」よりも「子ども課税」を

15歳未満の子どもがいる世帯に1人につき月2万6000円を支給する
「子ども手当」を、鳩山政権は来年度からの実施を目指しています。
しかし、僕はその財源の危うさだけでなく、
以下の2つの点から反対です。

第1に、「子ども手当」は、大げさに言えば、
〈子どもを作るという選択〉に対する国家権力の介入に当たります。
子どもを作ることは正しい・善であるという考えを、
国民に押し付けるようなものです。
子どもを作るのも自由、作らないのも自由。
それを国の政策としてニンジンをぶら下げて子どもを作らせようとするのは
いかがなものでしょうか?
少子化対策としては違う方法があるはずです。

第2に、「子ども手当」には、
〈子どもを作るという選択〉ができない人に対する配慮が感じられません。
不妊に悩む女性は、「お子さんはまだですか」という、
無邪気でそれだけに罪の重い親類・知人の言葉に苦しめられています。
「子ども手当」は、そうした女性に対して
国家が「お子さんはまだですか」と声をかけるようなものです。
また、現今の格差社会では、結婚したくてもできない、
子どもがほしくても作れない経済的弱者が存在しています。
そこに、子どもを持つ経済的な余裕のある世帯に手当を支給する。
格差を拡大するようなものです。
(注 民主党の考える「子ども手当」に所得制限はありません)

発想の転換が求められます。
子どもを作る作らないは、個人(カップル)に選択が任された権利です。
しかし、権利には義務がともないます。
子どもを作ることを選択したからには、
未来を切り開く責務を果たさなくてはなりません。
僕は、『小論文時事テーマとキーワード』看護医療編において、
「生まれてくる子どもに自己決定権はない」と書きました。
生まれてくることに対して、
子どもに自由(その裏返しとして責任も)はないのです。
その責任は、生むことを選択した者(カップル)が取らなければなりません。

では、どのようにして責任を果たすべきなのか?
看護医療編「16 環境問題と自己決定権」では、
過去の世代から受けた〈恩〉を未来の世代に返すという、
アメリカの倫理学者キャラハンの議論を紹介しました。
世代間倫理(現在の世代は未来の世代に対して責任を持つという考え方)に、
重要な視点を提供するものだと思います。
しかし、残念ながら具体性がありません。
そして、具体性がないと口だけで何もしない人を許してしまいます。
子どもを作らないことよりも、何も考えずに子どもを作ることの方が、
よっぽど問題です。

そこで、法哲学者の小林和之さんは、
「子どもを作るという選択への課税」を提唱しています。
(『「おろかもの」の正義論』ちくま新書)
子ども作る選択した人が、未来に向けて責任を取るよう制度設計する。
「子ども手当」とは逆の発想です。
これは、すでに選択した人に対して課税するのですから、
選択の自由に対する国家権力の介入にはあたりません。

小林さんの意見に、独身で子どものいない僕は大賛成ですが、
子どものいる人にとってはどうなのでしょうか?
『小論文時事テーマとキーワード』社会科学編の編集担当者が、
コメントしてくれると思います。

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プロフィール

【相澤 理】
(AIZAWA OSAMU)
職業:予備校講師

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