「内なる野蛮」を見つめて
今年(2009)、100歳を超える人生を全うして亡くなった
20世紀最大の「知の巨人」とも言えるレヴィ=ストロースは、
ユネスコから刊行された小冊子『人種と歴史』に、
次のように記しています。
「野蛮人とはなによりも先ず、野蛮が存在すると信じている人なのだ」
レヴィ=ストロースは、ブラジルなどで現地調査を行い、
ヨーロッパ人が「未開」「野蛮」と見なしてきた非西洋の社会にも、
西洋の社会に匹敵する高度な思考があることを見出した文化人類学者です。
ヨーロッパ人は、数式や記号を用いた抽象的な思考を得意とします。
これに対して、非西洋社会の人々は、
動物や植物といった具体的な対象に即して物事を考えます。
ヨーロッパ人はこれを幼稚な思考法と見なしていました。
しかし、レヴィ=ストロースは、
それが世界を説明するきわめて体系的な思考であることを読み取り、
これを「野生の思考」と名付けたのです。
自分とは異なるものを受け入れず、
野蛮だと決めつける、その心こそが野蛮である。
レヴィ=ストロースの冒頭の言葉は、
異文化共生と言うならば、まず自らの「内なる野蛮」と向き合うことの
必要性を示唆しています。
「内なる野蛮」--僕はここで、アメリカの批評家サイードが指摘した
オリエンタリズムに思いを馳せます。
ヨーロッパ人は、
自らの文化こそが最も優れていると信じて疑っていませんでした。
これをエスノセントリズム(自分化中心主義)と言います。
そして、その裏返しで、
東洋人に野蛮で劣っているというイメージを押し付けてきました。
そのような、無知と無理解に基づく偏見を、
サイードはオリエンタリズムと批判したのです。
しかも、その偏見はヨーロッパ人が自らの内に認めたくない資質を、
東洋人に投影したものであるとサイードは指摘しています。
外部に見出す野蛮とは、「内なる野蛮」にすぎないのです。
(なお、ここで僕が「内なる野蛮」と呼んでいるものは、
日本の脳科学者・養老孟司が言うところの「バカの壁」に
相当するものと考えられます。
「バカの壁」とは自らの内にあるのです。
それを、あたかも外部の他者が「バカの壁」として存在しているかのように
誤読させ、ベストセラーにしてしまう養老さんはズルイと思いますが、
本論から外れるのでこれくらいで止めておきます)
「内なる野蛮」が近代において引き出されたことを分析したのが、
フランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノです。
2人はユダヤ人であったことから第二次世界大戦中にアメリカへ亡命し、
戦後、フランクフルト社会研究所を再興して、
ファシズムや近代理性のあり方について鋭く分析しました。
共著『啓蒙の弁証法』において、
文明の進歩が人間の内なる自然としての野蛮を露にしたと指摘しています。
それは、近代科学が核兵器を生み出したことに象徴されるでしょう。
面白いことに、今回紹介した4人は、
レヴィ=ストロース、ホルクハイマー、アドルノの3人がユダヤ人、
もう1人のサイードがパレスチナ人です。
対峙し続ける両者から、「内なる野蛮」の認識を促す思考が産生される。
それは、異なる他者と向き合ってきたからこそ可能だったのかもしれません。
ノーマライゼーションの実現には、
自らの「内なる野蛮」と向き合うことが必要なのです。
補足 ノーマライゼーション
年齢・性別・能力・国籍・宗教などの違いを乗り越えて、すべての人が同じ
生活者として同じ生活空間で共 生できる社会を目指す考え方のこと。
そのために求められるのが、バリアフリー化やユニバーサルデザインなどの
環境の整備とともに、自分とは異なる人を受け入れるホスピタリティの心である。
20世紀最大の「知の巨人」とも言えるレヴィ=ストロースは、
ユネスコから刊行された小冊子『人種と歴史』に、
次のように記しています。
「野蛮人とはなによりも先ず、野蛮が存在すると信じている人なのだ」
レヴィ=ストロースは、ブラジルなどで現地調査を行い、
ヨーロッパ人が「未開」「野蛮」と見なしてきた非西洋の社会にも、
西洋の社会に匹敵する高度な思考があることを見出した文化人類学者です。
ヨーロッパ人は、数式や記号を用いた抽象的な思考を得意とします。
これに対して、非西洋社会の人々は、
動物や植物といった具体的な対象に即して物事を考えます。
ヨーロッパ人はこれを幼稚な思考法と見なしていました。
しかし、レヴィ=ストロースは、
それが世界を説明するきわめて体系的な思考であることを読み取り、
これを「野生の思考」と名付けたのです。
自分とは異なるものを受け入れず、
野蛮だと決めつける、その心こそが野蛮である。
レヴィ=ストロースの冒頭の言葉は、
異文化共生と言うならば、まず自らの「内なる野蛮」と向き合うことの
必要性を示唆しています。
「内なる野蛮」--僕はここで、アメリカの批評家サイードが指摘した
オリエンタリズムに思いを馳せます。
ヨーロッパ人は、
自らの文化こそが最も優れていると信じて疑っていませんでした。
これをエスノセントリズム(自分化中心主義)と言います。
そして、その裏返しで、
東洋人に野蛮で劣っているというイメージを押し付けてきました。
そのような、無知と無理解に基づく偏見を、
サイードはオリエンタリズムと批判したのです。
しかも、その偏見はヨーロッパ人が自らの内に認めたくない資質を、
東洋人に投影したものであるとサイードは指摘しています。
外部に見出す野蛮とは、「内なる野蛮」にすぎないのです。
(なお、ここで僕が「内なる野蛮」と呼んでいるものは、
日本の脳科学者・養老孟司が言うところの「バカの壁」に
相当するものと考えられます。
「バカの壁」とは自らの内にあるのです。
それを、あたかも外部の他者が「バカの壁」として存在しているかのように
誤読させ、ベストセラーにしてしまう養老さんはズルイと思いますが、
本論から外れるのでこれくらいで止めておきます)
「内なる野蛮」が近代において引き出されたことを分析したのが、
フランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノです。
2人はユダヤ人であったことから第二次世界大戦中にアメリカへ亡命し、
戦後、フランクフルト社会研究所を再興して、
ファシズムや近代理性のあり方について鋭く分析しました。
共著『啓蒙の弁証法』において、
文明の進歩が人間の内なる自然としての野蛮を露にしたと指摘しています。
それは、近代科学が核兵器を生み出したことに象徴されるでしょう。
面白いことに、今回紹介した4人は、
レヴィ=ストロース、ホルクハイマー、アドルノの3人がユダヤ人、
もう1人のサイードがパレスチナ人です。
対峙し続ける両者から、「内なる野蛮」の認識を促す思考が産生される。
それは、異なる他者と向き合ってきたからこそ可能だったのかもしれません。
ノーマライゼーションの実現には、
自らの「内なる野蛮」と向き合うことが必要なのです。
補足 ノーマライゼーション
年齢・性別・能力・国籍・宗教などの違いを乗り越えて、すべての人が同じ
生活者として同じ生活空間で共 生できる社会を目指す考え方のこと。
そのために求められるのが、バリアフリー化やユニバーサルデザインなどの
環境の整備とともに、自分とは異なる人を受け入れるホスピタリティの心である。

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