ウチダ先生はえらい
文章によく引く話に能楽の『張良』という戯曲があります。
劉邦の家臣として漢の建国に貢献した武人・張良は、
浪人時代に太公望の兵法の奥義を知るという老人・黄石公に出会います。
(太公望は呂尚の通称で、紀元前11世紀に活躍した伝説的な武人です)
黄石公は奥義を伝授すると張良に口約束したものの、なかなか教えてくれません。
ある日、張良は道で馬に乗る黄石公とすれ違うと、
黄石公は馬上から靴を落とし、取って履かせよと言いました。
張良は意味も分からず師匠の命に従って、靴を履かせます。
そしてある日、再び道で馬に乗る黄石公とすれ違うと、
黄石公はまたもや馬上から靴を落とし、取って履かせよと言いました。
その瞬間、張良は太公望の兵法の奥義を会得しましたとさ。
まったくもって不思議な話です。
この話は、学ぶこと・教えることの本質を見事に表現しています。
まず、張良は兵法の奥義を師匠に教わることなく自分で学びました。
つまり、物事は自分で学ぶことしかできない、ということです。
張良は、黄石公が2度目に馬上から靴を落としたとき、
これは何かのメッセージに違いないと考えたに違いありません。
黄石公が偶然に靴を落としたかもしれないのに、です。
ここには、学ぶ者が自ら問いを立て、
自ら学んでいく(自ら学んでいくしかない)という学びの本来的なあり方が示されています。
次に、学ぶ者が自分で学んでいくしかない以上、
教える者はあれこれ教えようとしない方が良い、ということです。
黄石公が奥義伝授のため綿密なカリキュラムを立て、
手取り足取り指導をしていたら、張良は奥義を体得できなかったに違いありません。
そうした作為は、自発的な学びを阻害するだけだからです。
そして、もう一つ大切なことがあります。
それは、何かを教えようとすると、教えた内容しか学ぶことができなくなってしまう、ということです。そもそも、教えられることなんて、奥義でも何でもありません。
学ぶ者の自発的な学びを損ねない。
それこそが、教えることの極意なのです。
(以前にも書きましたが、僕が、「この1冊でO.K.」とか「面白いほどよくわかる」とか唱う参考書を信用しない理由はここにあります。
それから、『小論文時事テーマとキーワード』には、
それでは売れないと営業サイドから脅され、
やっぱり載せた方が良いですよと編集者にさんざん言われても、
意図的に実際の入試問題と解答例を載せませんでした。
そうしたゴール地点が示されたとたん、
読者の思考がそこでストップしてしまうことを、
先行の類書を他山の石として知っていたからです。
『小論文時事テーマとキーワード』は皆さんが考えるきっかけとなればと思って書いた本ですから、間違っても「ネタ本」みたいに扱うのはやめて下さいね。)
僕は自分の中学・高校時代の経験から、この話が痛いほどよく分かります。
(社会科学編「16.超極私的教育論」参照)
そして、僕とウチダ先生との出会いもそのようなものでした。
数年前、レヴィナスという哲学者(以前にも紹介しました)と、
ラカンという精神医学者に、両者の関係性について何も意識せぬままに興味を持っていたときに、ウチダ先生は「ラカンによるレヴィナス」という副題のある著書をものしていらしたのです。
(多少は勉強した今だからこそ、よりいっそうその凄さが身に滲みますが、
両者を結び付けるという発想は尋常ではありません)
その瞬間から、ウチダ先生は僕の師匠となりました。
そして、いろいろなことを勝手に学ばせてもらっています。
「ウチダ先生はえらい」なのです。
こういう先生を見いだせるかが、人生を豊かなものとする上で必要なんだろうなと思います。
ただ、「尊敬できる先生がいない」とか嘆いてはいけませんよ。
あなたが誰かを先生と思った瞬間から、その人は先生となり、
学びは開かれるのですから。
ということで、ウチダ先生の入門編として、
『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)をお薦めします。
追記張良が会得した奥義について説明していませんでしたね。
張良が黄石公とのやり取りで学んだのは、主導権を握ることの重要性です。
黄石公は張良に考え込ませました(その意図があったかとは関係なく)。
この時点で、黄石公は完全に勝利を収めています。
張良が勝手に考えている間に、ばっさり斬ってしまえば良いのですから。
無心であれ、ということがこの話の教訓でしょうか。
あるいは、他者を勝手に想定する自分の心こそが本当の敵、ということかもしれません。
意味は各自で読み取って下さい。
それこそが学びの本来的なあり方です。

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