2010-3-8

「墨塗り教科書」から文部省著作教科書へ

社会科にしろ〈学習〉指導要領にしろ、
戦後教育の始まりにとても興味がわいてきましたので、
もう少し話を続けさせて下さい。
 
『山びこ学校』には、
「生命財産の保護」「日本のいなかの生活」など、
きわめて魅力的なタイトルの教科書が出てきます。
いったい何なのだろうと調べたところ、
1947年に社会科が創設された時に作られた、
中学社会科用の文部省著作教科書であることが分かりました。

このような教科書が登場した背景を考えるには、
「墨塗り教科書」について見ておく必要があるでしょう。
終戦から1か月後の1945年9月15日、
連合軍による占領下に置かれた日本政府は、
戦前の軍国主義的な教育を改め平和教育を推進すべきことを説いた
「新日本建設ノ教育方針」を発表します。
その中で、これまで用いられてきた教科書は次のような扱いとされました。

「三 教科書
 教科書ハ新教育方針ニ即応シテ根本的改訂ヲ断行シナケレバナラナイガ差当リ訂正削除スベキ部分ヲ指示シテ教授上遺憾ナキヲ期スルコトトナツタ」

新しい教科書を作成・配布することができない状況なので、
戦中の教科書の軍国主義的な記述や民主主義に反する内容を削除して
用いることにしたのです。
それがいわゆる「墨塗り教科書」です。

「墨塗り教科書」の実例については以下のページをご覧下さい。
http://poem06.flib.fukui-u.ac.jp/~joho/info/blacktext/
教科書の「墨塗り」は音楽などの教科にも及んでいます。
例えば、国民学校低学年向け唱歌「モモタラウ」は、
挿絵も含めて全面削除です。
その理由は、歌詞を読めば分かります。
「ハタハ 日ノマル 青イ 海 小サナ フネガ ホ ヲ アゲタ」
犬・猿・雉を引き連れて鬼が島へ鬼退治に行く桃太郎の話は、
日の丸を掲げて戦地へ赴く内容に仕立てられていたのです。
その他、算数の教科書では何の必然性もなく
戦車や大砲の数を計算させる文章題が掲載されていたりと、
あらゆる機会を用いて子どもたちに軍国主義の精神を植え付けようとしていたことが分かります。
(注 国民学校
 太平洋戦争開始の1941年、小学校は国民学校に改編され、忠君愛国の精神に基づいて戦時体制を支える皇国民の錬成が図られた)

「墨塗り」を行ったのは子供たち自身です。
文部省からの通知に従って授業中に先生方が行わせました。
教科書を真っ黒にするというこれまでの教育を全面否定する行為に、
先生方は心を傷めたに違いありません。
そして、昨日まで国のために命を捧げよと言ってきた先生方(大人たち)の
手のひらを返した態度に、子どもたちも不信感を抱いたことでしょう。
戦後の新しい教育にふさわしい、新しい教科書が求められていました。
そうして作られたのが、文部省著作教科書だったのです。

(現在は検定制度に基づいて民間の出版社が教科書を発行していますが、
戦後間もなくは文部省が作成していました。
なお、現在でも高校「家庭」「工業」など需要の少ない科目については、
文部科学省著作教科書が発行され、使用されています)

ところで、前回、
1947年に作成された当初の学習指導要領(試案)は、
子どもたちの〈学習〉を指導することに主眼が置かれ、
学校の先生の創意工夫に委ねることで、
子どもたちを「学ぶことの主体性」に開かせようとしていたと
指摘しました。
その意図は、教科書にも反映されています。
例えば、小学校6年生用の社会「土地と人間」には、
巻末に「教師および父兄の方へ」として以下の一節が記されています。

「この本は、児童たちに、社会科学習の手がかりとなる若干の資料を与え、合わせてその学習のしかたを暗示している。その資料は、第六学年の児童に、ぜひ与えなければならない知識を精選して排列したものではない。それは範囲からいっても深さからいっても偏している。だから、従来の教科書と同じように考えてはいけない。むしろ、児童用の参考書の一種として取り扱っていただきたい。したがって、この本に書いてあることを、順々に説明したり、暗記させたりしては困る」(一部旧字体を改めた)

文部省が自ら教科書を作成しながら、
教科書「を」教えるのではなく教科書「で」教えることを
求めていたことに注目して下さい。
例えば、学習指導要領(試案)一般編にも次のような記述があります。

「これまでの教育は、その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても画一的になって、教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは、教育の実際にいろいろな不合理をもたらし、教育の生気をそぐようなことになった」(一 なぜこの書はつくられたか)

先生や子どもたちを「学ぶことの自主性」に開かせるためには、
中央集権的で画一的な教育のあり方を改めなければならない。
そのことを、上に立つ者が認識していれば十分です。

ひるがえって、
制度的に(のみ)民間の出版社に発行を委ねる現行の教科書検定制度が、
本当に民主的で子どもたちにとって良いものなのか、
考えさせられてしまいますが、
深入りするのは止めておきましょう。

2010-3-4

2010年一橋大学日本史解答例(私案)

1近世の農村では、農業の集約化・多角化による生産性
の向上を図るべく商品作物の栽培が行われるとともに、
生活必需品や生産に必要な金肥・農具などを購入するた
め銭を必要とし、年貢納入後の余剰生産物を換金した。
2幕藩も生産を奨励した多年性樹木の漆・茶・楮・桑。
3貨幣経済の農村への浸透は農民層の階層分化を促し、
幕藩の財源基盤である本百姓体制を揺るがした。また、
需要の高まりに伴う物価の上昇と、その反対に新田開発
などによる供給過剰から生じた米価の低迷は、支出の増
加と収入の減少をもたらし、幕藩の財政を窮乏させた。
4ア田沼意次。商業資本を利用した財政再建を目指した
田沼は、在方株の積極的公認を通じて、各地で成長する
在郷商人の掌握と運上・冥加収入の増収を図った。イ水
野忠邦。江戸における物価騰貴に対処すべく、水野は三
都商人に対して株仲間の解散を命じ、自由な商取引を促
すことで江戸への物資供給量の増加を図ろうとした。

* 昨年は内容(文化史)といい設問数(6問)といい意表を突かれたが、今年は社
   会経済史を中心とする一橋大日本史の王道に戻った感がある。問4の株仲間
   に関する問題も、出されるべくして出されたと言えるだろう。



1高橋蔵相の積極政策による重化学工業の発達と、低為
替政策による中国市場への綿布輸出の拡大とで、大都市
に労働者が集まった。一方で、農村部は昭和恐慌の後遺
症に苦しみ、政府の自力更生路線の下で困窮していた。
2日中戦争が長期化する中、総動員体制の下で労働者が
軍需産業に動員され、大都市への人口集中が加速した。
3戦線がアジア太平洋に拡大する中で、農村部では食糧
増産のため労働力の確保が図られる一方で、都市部から
成年層が軍事動員された。その後、戦局が悪化し大都市
への空襲が激化すると、住民や工場の疎開が行われた。
4農地改革は零細農家を増加させる結果となったため、
高度成長期には都市部との経済格差が拡大し、農村部か
らの人口流出が問題化した。こうした中、1961年に制定
された農業基本法は、経営の近代化や機械化・大規模化
による自立経営農家の育成を目的としたが、逆に兼業農
家を増加させる結果に終わり過疎化に拍車がかかった。

* 経済状況と人口の増減の関連を問う問題は1998年にすでに出題されている。
   問4は農地改革の負の部分に踏み込む必要がある。その点でYの解答は物足
   りない。



1内村鑑三不敬事件。第一高等中学校の講師であった内
村が、キリスト者としての内面的な良心から教育勅語に
最敬礼を行わなかったため、天皇や皇室に対する不敬で
あるとして非難の世論を浴び、辞職を余儀なくされた。
21937年に文部省は天皇を中心とした一君万民体制を説
く『国体の本義』を発行して学校に配付し、国民教化の
根本とした。また、1941年には小学校を国民学校に改編
し、国家主義的教育を推進して皇国民の錬成を図った。
3内地との一体化を図るため、日本語や神社参拝などの
皇民化政策が行われ、朝鮮では創氏改名も強制された。
4終戦直後、GHQによる教育の自由主義化指令を受け、
軍国主義者の教職追放や修身・日本歴史・地理の授業停
止が行われた。その後、1947年には、教育の機会均等や
男女共学を定めた教育基本法や、単線型の新学制を規定
した学校教育法が制定された。また、1948年には教育委
員会法が制定されて教育行政の地方分権化が図られた。

* 近代教育史は一橋大日本史での出題が十分に予想されていた。どの設問も、
   用語の定義的説明を問う一橋大日本史らしい問題だったと言える。

2010-3-3

2010年東京大学日本史解答例(私案)


第1問
奈良時代には律令制下で能力に応じて官位が与えられることが建前
であったが、しだいに形骸化して貴族の身分は世襲・固定されると
ともに、財政の悪化により官人への給与も滞るようになった。こう
した中で、中下級貴族は地方支配が委任され私的な富の蓄積が可能
となった受領への任官を望み、官吏の任免権を握る摂関家などの上
級貴族に物資の提供などを通じて家司として仕える道を選んだ。

* 中国の科挙のような人材登用制度が日本の律令制下でも機能していたのな
   らば、中下級貴族が摂関家に私的に仕える関係を結ぶ必要はなかったはずで
   ある。官僚制における能力に応じた昇進に触れているK以外の解答は、「奈良
   時代からの変化」に答えられていないのではないか。

 
第2問
A 気候が温暖な九州からは米が、商品作物の栽培が発達した畿内か
らは油が、養蚕や畑地に適した関東からは絹や麻が納められた。
B 年貢を現地で換金し京都の荘園領主に銭で納めるようになった。
C 貨幣経済が発達し、京都を中心に全国流通網が形成される中で、
年貢も商品として扱われ、財物が京都に集積するようになった。

* 近年の東大日本史では、地域的な多様性に目を向けさせる出題が目立つ。網
   野善彦氏の資料を引用してことを考えれば、Tのような解答もありなのでは
   ないか。しかし、Cに関しては今の段階で自信を持って解答を示すことがで
   きない。年貢が「商品」化される過程にもっと踏み込む必要があるように思
   う。

 
第3問
A 山師としては資金力があり佐渡金山・生野銀山などで鉱山運営の
経験を持つ北陸・畿内の商人が集まり、精錬職人としては石見大森
銀山などで灰吹法の技術を身につけた中国地方の者が集まった。
B 本百姓からの年貢徴収を財源とする藩にとって、費用のかかる三
都以外に領国内で独占的に割高で取引できる市場を確保できた。

東大日本史は時おり系統的・網羅的に(のみ)学習してきた受験生をあざ笑う
   かのような問題を出題することがあり、そうした野性味あふれる問題を僕は
   結構気に入っている。Bは諸藩の財政が本百姓体制を基盤としていることを指
   摘しなければ論旨として十分ではない。合格点はSのみだと思う。


第4問
条約改正交渉の失敗や朝鮮での日清間の対立は民権派内でも国権論
を高めさせ、三大事件建白運動での外交失策を求める動きとなって
現れた。また、井上外相の極端な欧化政策に対する反発から、徳富
蘇峰は国民の生活向上を求める平民的欧化主義を唱えたが、一方で
日本の伝統的な精神や文化を称揚する三宅雪嶺らの国粋主義も台頭
し、日本美術を再評価する機運の中で東京美術学校が設立された。

* 1880年代の動向は東大日本史の空白地帯であったが、ついに出題されたとい
   う感じである。自由民権運動の展開と国権論の高まりは、教科書ではきちん
   と関連づけて説明されていないので、自分で論旨を組み立てる必要がある。
   というよりも、様々な要素を関連づけて多面的に考察する学習が、東大日本
   史では求められることを再認識させられた。


2010-3-1

社会科の誕生と〈学習〉指導要領

前回の話の続きです。
僕は、生活綴り方=作文という先入観があったものでしたから、
無着先生はてっきり国語の先生だと思っていたのですが、
社会科の教師として山元中学校に赴任したということを、
『山びこ学校』のあとがきを改めて読んで気づき、驚きました。
(もっとも、山間の小さな学校で全科目を教えなければならなかったのですが)

社会科は、戦後、
アメリカ教育使節団報告書(第1次・1946年)に基づいて、
民主教育の一環として鳴り物入りで創設された科目です。
戦前には、歴史・地理・政治とバラバラの科目で行われていました。
しかし、一つには知識偏重であるという批判と、
(予備校講師として耳が痛いです)
もう一つには軍国主義の片棒を担いだという批判から、
(戦前の日本史は非科学的な皇国史観に基づいて教えられ、
教科書でも天皇に関する記述は最高敬語を用いるという徹底ぶりでした。
また、地理はそもそも軍事的・地政学的な色合いの強い科目です。
地図の記号って、湿田はぬかるんで兵が進めないとか、
広葉樹林は冬に落葉して身を隠せないとか、
軍事目的で作られたものなのですよ)
終戦後にGHQによる教育の民主化指令を受けてこれらの授業を停止し、
民主社会を担う公民的資質を養うという目的で社会科が創設されたのです。

つまり、単に知識として歴史や地理を学ぶのではなくて、
それらの知見を幅広く集約し、民主的な社会を創造する力を養おうというのが、
社会科の本来の目的だったのです。
現在の学習指導要領においても、次のように目標が記されています。
「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し、我が国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」
(平成14年4月施行・中学校学習指導要領・第2節社会・第1目標)
無着先生は戦後の社会科教師の一期生でした。
何をどう教えれば良いのか、すべて手探りで始めて、
そして到達したのが『山びこ学校』だったのです。
それは、社会科の理念を見事に実現したものと言えるでしょう。
子どもたちは、自分たちの生活を直視することを通じて、
日本社会や農業の抱える問題点にまで到達していたのですから。
(前回紹介した「学校はどのくらい金がかかるものか」はその一例です)

ところで、『山びこ学校』を改めて読み直すと、
あとがきに無着先生が次のような一文を書き記していて驚嘆しました。
「社会科は、「教科書で勉強するのではない」といい「社会の進歩につくす能力をもった子供にしなければならない」という文部省の考えの深さに驚いたのでした。」
驚くのはこちらの方です。
今の学校の先生は、学習指導要領にがんじがらめにされています。
文部省(現文部科学省)が「教科書で勉強するのではない」なんて言うとは、とても信じられません。
そこで、1947年に初めて作成された学校指導要領を調べてみました。
(なお、過去の学習指導要領は、 NICER教育情報ナショナルセンターのホームページで閲覧できます)
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s22ej/

まず、第一に注目すべきは、当初の学習指導要領には、
表題に(試案)の2文字が書き添えられていた、ということです。
終戦直後、国も新しい民主的な教育に向けて、試行錯誤の段階でした。
ですから、これをやれ、というものではなく、
一つの提案をして、後は先生の自由に任せようというのが、
本来の学習指導要領だったのです。

序論にはこう記されています。
「もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。しかしそういう目標を達するためには、その骨組みに従いながらも、その地域の社会の特性や、学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて、それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え、その方法を工夫してこそよく行くのであって、ただあてがわれた型のとおりにやるのでは、かえって目的を達するに遠くなるであろう。」
先生自身を「学ぶことの主体性」に開かせようとした意図が読み取れます。

そして、第二に注目すべきは、
「学習指導要領」という言葉の意味です。
僕はこれまで、なぜ〈学習〉指導要領なのか、考えてもみませんでした。
その意味、その目標は、明解にこう書かれています。
「児童や青年は、現在ならびに将来の生活に起る、いろいろな問題を適切に解決して行かなければならない。そのような生活を営む力が、またここで養われなくてはならないのである。それでなければ、教育の目標は達せられたとは言わない。」
学習指導要領とは本来、
学校の先生が何をどう教えるかという手引きではなく、
子どもたちをいかに〈学び〉へと導いていくかという視点で作られた、
まさに〈学習〉指導要領だったのです。
そして、子どもたちを「学ぶことの主体性」に開かせるものは
先生の「学ぶことの主体性」ですから、
2つの注目点はつながっています。

この学習指導要領が今もあれば、
僕が社会科学編で「16.超極私的教育論」なんて書く必要も、
ウチダ先生が沓をはかせる話を何度も語る必要もないのでした。
(11月29日付ブログ参照)

2010-2-22

「山びこ」は今も聞こえる

「雪がコンコン降る。
人間は
その下で暮らしているのです。」

1951(昭和26)に出版されて爆発的な売れ行きを記録し、
戦後教育の金字塔として今にも名を残す、
一山村の中学生の詩作文集である『山びこ学校』。
(現在も岩波文庫・角川文庫から発行されています)
その冒頭に掲載されているのが、
「雪」という題名のこの詩です。

『山びこ学校』は、今でも僕にとって文章の教科書であり続けています。
そして、たびたび読み直して、自分は誠実に言葉と向かいあってきたか、
自戒の材料としています。

終戦直後の1948(昭和23)年、
山形師範学校(現在の山形大学教育学部)を卒業して、
山元村(現在は上山市に編入)という谷あいの小さな村の小中学校に赴任した
青年教師の無着成恭先生(1927〜)は、
受け持ちとなった中学生1年生43名を見て愕然とします。
計算ができない、漢字の読み書きができない、
中には、自分の名前を漢字で書けない生徒もいるほどの
学力の低さだったからです。

その理由は、戦争中に満足に教育を受けられなかったこともありますが、
村の貧しさが大きな背景として存在しました。
1929(昭和4)年、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに発生した
世界恐慌は、日本経済にも波及し、農村を直撃しました(昭和恐慌)。
米・繭などの農産物の価格が、半値近くまで下落したのです。
それに追い打ちをかけたのが、
1934(昭和9)年に発生した東北大冷害です。
カボチャや大根の葉で餓えをしのぎ、
泣く泣く娘を身売りする(TVドラマ『おしん』の世界です)。
無着先生が担任となったのは、
まさにその頃生まれ、戦争に翻弄されて学校にも通えなかった子どもたちでした。

読み書きも計算も満足にできない子どもたちを前に、
いったいどうやって指導すれば良いのかと悩んだ無着先生は、
戦前から行われていた生活綴方(つづりかた)を思い立ちます。
生活綴方とは、
子どもたちに自らの生活のありのままを書かせることを通じて、
現実を、自己を見つめ直させようという教育実践です。
(小学校の時にさんざん書かされた作文って、
もともとはそういう意味を持っていたんですよ)

無着先生は、山元村の生活の厳しさ・貧しさを子どもたちに直視させ、
それがどのような要因によって生じているのかを
徹底的に調べさせ、考えさせました。
例えば、『山びこ学校』に収録されている
「学校はどのくらい金がかかるものか」というグループレポートでは、
教科書代や文具代にも事欠く家計の状況を出発点に、
山元村での1戸あたり平均収入額や村の総予算額などを調査し、
他村の予算に占める学校予算額の割合などと比較しながら、
「私たちの学校に、もっと予算を多く、せいぜい二〇%以上でなければ、うまい学校教育はできないのじゃないでしょうか。」
と結論づけています。
(僕は、こうした実践に現在行われている「総合的な学習の時間」の
あるべき姿を見いだしているのですが、それは次回以降考えます)

こうして書きためられた生活記録としての作文や詩を、
無着先生がガリ版刷りで発行したクラス文集「きかんしゃ」は、
ある生徒の作文「母の死とその後」が文部大臣賞を受賞したこともあって
東京の出版社の目にとまり、
『山びこ学校』として発行されると評判が評判を呼んで、
12万部という当時の大ベストセラーとなったのでした。

はじめに紹介した「雪」の作者、石井敏雄君は、
2歳のときに父と死別し、母とも生き別れとなって、
叔父夫婦の下で育てられました。
敏雄君は中学に上がるころになると炭焼きの仕事に駆り出され、
ほとんど学校に通えませんでした。
(規定の登校日数の半分にも満たなかったそうです。
『山びこ学校』には序文として、
「この本を読んでくれる全国のお友だちへ」という、
生徒たちが書いた一文が載せられていますが、そこには、
「私たちの学校には、病気で休む人なんか、さっぱりいないくらいです。(中略)
毎日二割ぐらい休みますが、ほとんど家の仕事でやすむのです。」とあります。
子どもは家の貴重な労働力、学校どころではないというのが、
山元村の、いや、終戦直後の状況でした)

久しぶりに学校に登校し、降り出した雪を見て書いたのがこの詩でした。
「その下で」がどのような境遇であったのか、よく分かると思います。
そして、それが言葉に凝縮されているからこそ、
この詩はずっしりとした手応えのある重みをもって
私たちの心に迫ってくるのです。

人に届く言葉、人の心を打つ言葉というのは、
自分を見つめ直し、思いを深く掘り下げて、
身体の底からわき上がってきたような言葉(だけ)です。
真正面から現実と向かい合い、自分と向かい合うことから、
本物の言葉は紡ぎ出される。
それは、戦後からはるかに遠ざかった現代においても変わりありません。
自分は言葉と誠実に向かい合っているかを問うことは、
自分はひたむきに生きているかと問うことでもあるでしょう。
だから、『山びこ学校』は、
文章の教科書であるだけでなく、人生の教科書なのです。

2010-2-15

監視カメラは心を覗く

江戸時代に行われていたキリシタンに対する踏み絵(絵踏制度)を、
僕は前からおかしいと思っていました。
僕はクリスチャンではありませんし、
特定の宗教を信仰しているわけでもありませんが、
もし神やイエスを信じているのならば、
その信仰ゆえにためらいもなく踏む、と思うからです。

踏むという行為によって、内面的な心が揺らぐとでも言うのでしょうか。
キリスト教は、神の愛(アガペー)による赦しの宗教です。
神は無償に降り注ぐ愛で私たちの罪を赦す。
イエスも自らの偶像を踏むことを赦して下さることでしょう。
キリスト教のことが分かれば分かるほど、
踏み絵は改宗を促すどころか、信仰心を確認する行為にさえ思えてきました。

ところが、実際に幕府が行っていたことは、もっと本質的なものでした。
1635年、3代将軍徳川家光は、全国的な信仰調査を行います。
そのときに用いられたのが、南蛮起請と呼ばれる誓願書です。
これは、キリシタンからの転宗者に再び戻らないことを誓わせたもので、
そこには、もしキリシタンに戻ったら、
神罰を蒙り地獄の苦しみを味合わされるとの罰文も書き記されました。
キリシタンの言葉でキリシタンの神に誓わせた点が秀逸です。
幕府は、キリシタンたちを踏み絵という外見上の行為だけではなく、
内面的な信仰心をも根こそぎ支配しようとしていたのでした。

権力の支配は心の内面にまで及ぶ、
だからこそ、日本国憲法は信教の自由について次のように規定するのです。
「第二〇条 ①信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
信教の自由とは、国家権力によって心を支配されないことである、
このことには注意を要します。

さて、今回はなぜこんなことを書いているかというと、
先週、劇作家の鴻上尚史さんが主宰する
劇団「虚構の劇団」の公演『監視カメラが忘れたアリア』を観て、
監視カメラの眼は心の内面にまで及ぶものなのかについて、
考えさせられたからです。

いま、街中の至るところに防犯カメラ(監視カメラ)が設置されています。
別に良いではないか、心の中まで盗み見されているわけでもないし。
しかし、踏み絵は信仰という心の内面にまで及ぶものでした。
もしかして、身の安全という理由で防犯カメラ(監視カメラ)を受け入れる、
そのこと自体が、私たちが知らぬ間に権力を心の内面に受け入れていることを
意味しているのかもしれません。
(「知らぬ間に」ということが、本当はもっとも恐ろしいことです)

フランスの哲学者ミッシェル・フーコー(1926〜1984)は、
近代社会において権力者が狂気を排除しながら社会規範を形成し、
個人を規律化していく過程を描きました。
権力が作り出した社会規範から外れた異質な存在、それが狂気です。
例えば、犯罪者は社会規範を乱しますから、排除しなければなりません。
そのために作られたのが監獄です。

近代の監獄では、パノプティコン(一望監視装置)と言って、
おいてすべての囚人を監視できる位置に監視所が設置されました。
ちょうどマジックミラーで向こうからだけこちらが見える状態です。
ですから、監視者がつねに監視しているとは限りませんが、
囚人はつねに監視されていると思って行動しなければなりません。
それゆえ、囚人たちは監視されているかに関係なく自らを律していきます。
これが、フーコーの指摘した〈規律の内面化〉です。

さて、このように規律を心の内面に刷り込まれる(しかも自発的に)のは、
囚人だけではありません。
権力者は、社会規範から外れた者を生み出さぬよう、
人々を規律化するための施設を作り出しました。
それが、学校であり、軍隊です。
学校では、他者と協調行動が取れるように教育し、
軍隊では上司の命令に従って動くよう訓練する。
こうして、人々は「知らぬ間に」社会規範を受け入れ、
自発的に規律を内面化していくのです。

話を防犯カメラ(監視カメラ)に戻しましょう。
防犯カメラ(監視カメラ)もパノプティコンと同じような装置であることに
気付きませんか?
カメラの向こうで誰かが見ているかどうかに関係なく、
見られていることを前提として行動する。まさに〈規律の内面化〉です。
しかも、防犯カメラ(監視カメラ)は、
社会規範から外れる者を排除するという形で、
「内なる野蛮」をあらわにしていることにも注意しなければなりません。
(「内なる野蛮」については12月28日付ブログ参照)

権力の支配は心の内面にまで及ぶ。
私たちは、知らぬ間に、しかも自発的に、権力に従っている。
このことに、私たちはもっと自覚的であるべきでしょう。

2010-2-15

ご質問にお答えします3

kさんから、グローバル経済に関する質問をいただきました。
ありがとうございました。

まず、経済のグローバル化が
リーマン・ショックを世界に波及させたという点については、
僕もその認識で間違っていないと思います。
各国の市場が直結し、
国境を越えてお金や人、そして情報が動くようになったことで、
アメリカの本当に一部の人が浮かれていたバブルの影響を、
世界中の人が受けてしまったわけです。
(社会科学編「3.グローバル化する経済」参照)

ただし、竹中平蔵を筆頭とする新自由主義のみなさまは、
世界経済には自由競争を阻害する障壁がまだ残されていないため、
市場がちゃんと機能していない結果だと説明するのだと思います。
(このあたり、別冊p.23「新自由主義」の項目で書きましたが、
新自由主義者のみなさまは、
経済が経済以外のもの(コミュニティ)に支えられて動いているということを、
理解していないか無視しています。
市場に上がらない「自由」を、なぜ認めないのでしょうか。)

次に、東アジア経済共同体などの地域経済統合が
グローバル経済から日本経済を守る役割を果たすとの見方ですが、
これは半分正しくて半分間違っているとしか言いようがありません。
というのも、現代世界において形成されつつある地域経済統合は、
両義的な性格を持つものだからです。

EPAやFTAは、WTOドーハ・ラウンドが不調に終わったことを受けて、
利害の一致した特定国間で自由化を進めていこうというものです。
ですから、本来は経済のグローバル化を志向しています。
しかし、実際のところは、
協定外の国には関税を残すなど排他的な性格の強いものとなっています。
EUなんて、出発点のECSCが戦争が
物理的に不可能な共同体の形成を目的としていたはずなのに、
今ではアメリカ経済への対抗という意味合いが全面に出ていますよね。
ASEANやAPECの構想も同様です。
そして、その内部でも激しい主導権争いが繰り広げられています。

以上が半分正しくて半分間違っているという理由ですが、
僕としては、地域経済統合うんぬんよりも
経済を下支えするネットワークの形成の方が急務ではないかと思います。
ODAしかり、人間の安全保障しかり。
経済の問題は経済では解決できない。
それを経済で解決しようとするからどんどんおかしくなっていく。
これが僕の見解です。

ブログは基本的に月曜更新ですので、
タイミングによって1週間近くお待たせすることがありますが、
それでもよければご質問をお寄せ下さい。

2010-2-8

イワシの頭に身を委ねる

中世の説話集『宇治拾遺物語』に、
「尼、地蔵を見奉る事」という一節があります。

今となってはもう昔のことですが、丹後国に老いた尼がおりました。
尼は、地蔵菩薩さまが夜明けごとに辺りを歩き回っていらっしゃる
という噂を小耳にはさんで、地蔵さまのお姿を拝見したいと思い、
毎朝のように辺りをうろうろ歩いていたそうです。

あるとき、ばくちに打ちほうけて着ぐるみ剥がされた男が、
さまよい歩く尼を見つけて、
「寒いのに何をなさっているのですか」とたずねたところ、
尼は「地蔵菩薩さまが夜明けに出歩いていらっしゃるというので、
お会い申し上げたいと思って、このように歩き回っているのです」
と答えました。

ばくち打ちは、良いところにカモがやってきたと思い、
「地蔵さまがお歩きになっている道なら私が知っています。
さあついていらっしゃい、会わせてさしあげましょう」とうそぶきました。
それを聞いて、尼は「ああ、なんてうれしいことかな。
地蔵さまの所へ私を連れていって下さい」と大喜びで言います。
そこで、ばくち打ちはシメシメと思いつつ、
「私に物を下され。そうしたらすぐにでも連れていって差し上げよう」
と言いました。
尼は「この着ている服を差し上げよう」と即答でしたので、
ばくち打ちは「さあいらっしゃい」と隣の家に連れて行きました。

ばくち打ちはその家の親と知り合いで、
子どもの名前が「ぢぞう」だということを知っていたのです。
喜び勇んでついてきた尼の前で、
ばくち打ちが親に「ぢぞうはどうしてるかい?」とたずねたところ、
親の答えは「遊びに行った。もうすぐ帰ってくるだろう」とのことでした。
(明け方なんですけどね)
そこで、ばくち打ちは尼に向かって、
「さあ、ここです。ぢぞうさまがいらっしゃる所は」と言うと、
尼は大喜びで紬の着物を脱いでくれたので、
ばくち打ちは受け取るやいなやその場を立ち去りました。
(子どもの「ぢぞう」が帰ってきたら嘘がバレてしまいますから)

「地蔵さまを拝見したい」と言って座りこむ尼を見て、
親は意味が分かりません。
「どうしてうちの息子なんか見たいと思うのだろう」
そう思っていたところ、十歳ほどの子どもが帰ってきたので、
「これがうちのぢぞうです」と紹介しました。

尼はその姿を見つけるや、
無我夢中で転がるようにひれ伏して拝みこみ、地面に頭をつけました。
子どもは、持っていた棒切れで手遊びのように額を引っ掻くと、
額より顔の上まで裂けてしまいました。
そして、その裂けた中から
何とも言えずすばらしい地蔵さまのお顔をお見せなさったのです。
尼が頭を上げげると(尼はずっと深々と頭を下げていました)、
地蔵さまが立っていらっしゃったので、
涙を流して拝み申し上げて、そのまま極楽に往生したそうな。

そして最後に、
「心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけりと信ずべし」
(心にさえ深く念じていれば、必ず仏様も姿をお見せなさると信じなさい)
と記されて、締めくくられています。

この説話が(僕の)心を打つのは、
老尼の疑いなき信心の深さです。
そこには、自らの身を投げ出す覚悟がなければなりません。

親鸞の弟子である唯円が著わした『歎異抄』にはこうあります。
「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて(信じて)、信ずるほかに別に子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるる(生まれる)たねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされ(だまされ)まひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」

念仏が、極楽浄土に往生する素なのか地獄に堕ちる業なのかは分かりません。
しかし、親鸞は、師匠の法然にだまされて、
念仏を唱えて地獄に堕ちたとしても、決して後悔はしないと言います。
それは、自分の力では救いの道を開くことができない以上、
阿弥陀仏にすべてを委ねて、念仏を唱えるしかないからです。

親鸞は、悪人正機の教えを説きました。
自らの罪深さを自覚した者(悪人)こそ救われる、というものです。
自らの非力を思い知る、そこに、すべてを投げ出す覚悟が生まれます。

老尼が見せた姿は、
「イワシの頭も信心から」と軽々しく言えるようなものではありません。
イワシの頭にさえ身を委ねることのできる信心の深さなのです。

2010-2-1

縄文の祈り

三内丸山遺跡(青森県)の名前は、
日本史を選択していない人も聞いたことがあると思います。
500人近くの人たちが集団で生活していたと考えられ、
掘立柱の建物や人工的に造成されたクリ林が発見されるなど、
〈貧しく未開な縄文時代〉というイメージを一変させた遺跡です。

その集落の中心から外部に向かって延びる道路の両側には、
高さ約2メートル・幅約420メートルにわたって墓地が作られていました。
まるで死者の魂に囲まれて中へ入って行くかのようです。
さて、ここで注目すべきは、
乳幼児や死産した胎児の亡骸は、成人とは別の場所に、
特別な土器にいれて埋葬されている、ということです。
どんなに〈豊かな縄文社会〉というイメージが作られようとも、
過酷な自然環境であったことに変わりはありません。
亡骸の大きさなどを調べると、
4人に3人が15歳になる前に亡くなっていたと考えられます。
だからこそ、今度こそ元気に育って成人してほしいとの願いを込めて、
子どもを手厚く葬ったのでしょう。

魂の再生を願う気持ちは、
縄文時代の一般的な葬法にも現れています。
縄文時代には、屈葬と言って、
足を折り曲げて膝小僧を腕で抱え込むようにして埋葬されました。
遺体を強く縛ったり、お腹に石を抱えさせたりしたものも見られます。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/4/4-15.html


なぜ屈葬が行われたのか? その理由として、
穴を掘る労力を省く(足を曲げれば直径1メートルほどの穴で済みます)、
死霊が活動して生者に災いをもたらすのを防ぐ、
といったことが従来は言われてきました。
しかし、生活空間の出入り口を取り囲むようにして、
荘厳に作られた三内丸山遺跡の墓地を考えれば、
そのような死者の扱いは縄文人に似つかわしくありません。
それよりも、僕が魅力を感じるのは、
再生を願って胎児の姿にして大地に返したという説です。
例えば、環状列石(ストーンサークル)で知られる大湯遺跡(秋田県)も、
共同の祭祀場であったと考えられています。

縄文時代のゴミ捨て場とされる貝塚も、
〈再生への祈り〉という観点から捉え直すことができます。
自然からいただいた恵みを、自然に再び返す送り場。
貝塚から人骨が発見されるのも決して不思議ではありません。
縄文人は亡骸をゴミ同然に扱った--違います。
人間の亡骸も動物の骨や貝殻も、同じ生命あるものとして、
縄文人は自然に送り返したのです。

生命あるものに魂を看て取り、再生への祈りを込める。
女性をかたどった土偶は、縄文人の豊かな精神世界を象徴する人形です。
さまざまなデザインの土偶がありますが、
共通して乳房や下半身をふくよかに成形していることから、
生殖を祈る祭祀に用いられたと考えられます。
(なお、土偶は完全な状態で出土することはなく、
ほとんどの場合、足や腕を打ち欠いた痕があります。
最近の、CTスキャンなどによる解析では、
足や腕の部分は最初から造りが脆いことが確認されているそうです。
恐らく、祭祀が終了した後に、
土偶に宿ったマジカルな生命を自然に送り返すため、
一部を打ち壊したのだと考えられています)

子どもを背負ったり抱いたりしている土偶(東京都宮田遺跡など)は、
わが子への慈しみの気持ちを強く感じさせます。
また、神奈川県中屋敷遺跡から出土した土偶形容器は、
中に乳幼児の遺骨を納めるために用いられたものです。
土偶にも〈再生への祈り〉が込められていたことは間違いありません。

掌を合わせた、お産の様子と考えられる合掌土偶(青森県風張1遺跡)
現代的なデザイン性も感じさせる縄文のビーナス(長野県棚畑遺跡)
宇宙人のような容貌の遮光器土偶(青森県亀ケ岡遺跡)
『国宝土偶展』(東京国立博物館)で一同に会した、
全国各地の表情豊かな土偶を見ながら、
縄文人たちの〈祈り〉の強さを感じました。


僕に『小論文時事テーマとキーワード』を書かせようなどという、
前代未聞、罪業のかぎりを尽くした企画に許可を与えた、
旺文社の高校文系グループのマネージャーはどうお感じになったのでしょうか?
 

2010-1-25

『板尾創路の脱獄王』を観る

(今回の記事には、
現在公開中の映画のストーリー展開に関わる
内容が含まれていますのでご注意下さい。
ただし、知っていて観ても十分に面白いと思いますよ)

板尾創路さんの初監督作品『板尾創路の脱獄王』を観ました。
全編が最後の1コマのための前フリという、
板尾さんのシュールさ全開の映画でしたが、
いま書き続けている〈家族〉という視点から捉え直したとき、
〈親子の絆〉がいかに危ういものであるかについて
考えさせられました。

血の繋がった親子は話さずともお互いの気持ちが分かる、と言われます。
いや、話してしまったらお互いの気持ちなど分かっていないことが
明らかになってしまいますので、話してはいけません。
口にしてはいけない。こうして、
現実が露呈することを恐れる親子双方の暗黙の了解のうちに、
〈無言のままの意思疎通〉という幻想は強化されていくのです。

父親に再会するため脱獄を繰り返す、板尾さん演じる脱獄王・鈴木雅之は、
最後の場面、眼と眼があった瞬間に、
この人こそが自分の父親であると確信します。
なぜ父親の胸元に彫られた富士山の入れ墨を確かめないのか。
そのような疑問や批判は筋違いです。
そんなことを確認したら、〈親子の絆〉は台無しになってしまいます。
確かめずとも、言葉を交わさずとも、
見つめあうだけで親子と分かる。そうでなくてはいけないのです。

これで終われば「感動の嵐」「全米が泣いた」になるのですが、
板尾さんがそんな映画を作るわけがありません。
後から振り返ると、〈親子の絆〉の幻想が暴かれてしまうのですから、
結構コワイ映画です。ぜひ御覧下さい。

しかし、最後のカットでの板尾さんの何と幸せに満ち足りた表情のこと。
板尾さんは、たとえそれが勘違いによる幻想の産物だとしても、
〈親子の愛〉を信じたかったのかもしれません。
それから、赤の他人であるはずの笑福亭松之助さんの微笑み。
これこそが、〈親子の愛〉という幻想の感染力です。

自明なものとされる〈家族の絆〉に揺さぶりをかける。
僕は映画を観終わった後、
糸井重里さん(肩書きはどう書けば良いのでしょう)が書いた
小説『家族解散』(新潮文庫)を思い出して読み直しました。

ある日、父親の小倉文彦氏が、
「日本人は日本人らしく」とちゃぶ台を持ち帰ってきたことから、
これまでテーブルの上に置かれていた魔法びんや小梅の容器は居場所を失い、
それと同時に家族たちにも居心地の悪さが広がっていきます。

まず、ちゃぶ台での初めての食後に、
高校生の長男・明彦が灰皿代わりに使っていたマーマレードびんを
部屋から持ってきて、家族の前で煙草を吸い始めました。
明彦の喫煙は、母親の絹枝もうすうす勘付いていたことです。
しかし、「現場」さえ見なければ、咎めはしない。
それが家族の暗黙のうちに取り決められた「法律」でした。
だから、それを分かって明彦も部屋で吸っていたはずです。
それなのに、ちゃぶ台が我が家にやってきた途端、家族の目の前で吸う。
注意せざるを得ない状況が、否応なしに生じてしまいました。
「現場」を恐れていたのは、明彦ではなく絹枝のほうだったのです。

このぶんだと、まだまだ何かが起こり続けるにちがいない。
絹枝は注意するのも忘れてぼんやりとした恐怖を感じます。
それは思い過ごしではありませんでした。
この後、明彦は「心配しなくて良い」と毎日電話しながら家出し、
長女の明子は恋人と別れ、次女の文枝はエロ本を家に持ち帰り、
文彦氏も会社を休み、夕暮れのふろ場で「かなり、さみしい」とつぶやく。
家族はヘンテコなことになってしまったのです。

そうした中、家出から帰ってきた明彦は、
ヒマラヤ不動産という名の赤の他人を家に連れ込みます。
素性の知れない訪問客に、落ち着かない空気の流れる茶の間。
しかし、ヒマラヤ不動産用の歯ブラシや湯のみが準備され、
家族の一員として自然に溶け込んでいきます。
糸井さんの家族に対する鋭い視点を感じさせるのが、次の一文です。

「小倉家は、一日のうちに、昨夜はじめて訪れてきた客を「家族同様」の人に決めてしまった。
いや、誰もそう決めたわけではなかったのだが、タオルや湯のみや歯ブラシが、
ヒマラヤ不動産の、これからの立場をかたちづくってしまったのです。」

家族は血の繋がりによって家族であるわけではありません。
日常生活の営みを通じて、日常生活を送る上で必要な物を介して、
家族となるのです。
前回書いたように、家族とは第一義的に相互扶助的な支えあいによる組織です。
〈夫婦の愛〉や〈家族の絆〉は、
その後から生まれてくる二次的なものにすぎません。
それを余すところなく描いたのが、『家族解散』でした。

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プロフィール

【相澤 理】
(AIZAWA OSAMU)
職業:予備校講師

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相澤 理