2010-7-26

ワールドカップと蒙古襲来

ワールドカップは、まさに〈国〉の威信を賭けた戦いです。
すでに名誉も地位も財産も手に入れたはずのスター選手たちが、
目の色を変えて必死にボールを追い、時に泥臭いプレーまで見せるのは、
その背中に背負ったものの大きさゆえでしょう。
そして、勝利に歓喜し敗北に落胆するのは、
どの国の国民も変わりありません。

しかし、日本における声高な〈国〉の叫び方には、違和感を覚えます。
例えば、日本代表の試合ごとに渋谷にくり出した若者たち。
明らかに〈国〉を肴に日頃のやるせない感情を放出しているだけです。
あるいは、試合前に行われる「君が代」の独唱。
国どうしの戦いですから、国家を唱うことは当然です。
ですが、なにゆえに有名な歌手が来て唱わなければならないのでしょう。
(なお、プロ野球のパリーグでは、試合前に国歌斉唱と国旗掲揚を行います。
僕はたかだがスポーツの興行に〈国〉を持ち出すのはいかがなものかと思い、
起立したことが一度もありません)

日本人がどのような国家観を持ってきたのか?
とても参考になるのが、
中世日本の対外関係史を専門とする村井章介さん(東京大学教授)が著わした
『北条時宗と蒙古襲来』(NHKブックス)です。
蒙古襲来と言えば、鎌倉時代の日本を襲った〈国家存亡の危機〉で、
当時の御家人たちは〈国の命運〉を賭けて必死に戦った。
そういうイメージがあるかもしれません。
しかし、実際はどうだったのでしょう。

教科書にも載っている『蒙古襲来絵巻』を知りませんか?
九州の御家人・竹崎季長が子孫に武功を伝えるために描かせた絵巻物で、
モンゴル軍の弓矢や火薬兵器(てつはう)を用いた攻撃に、
季長の騎乗する馬がヒヒーンといななく場面は有名です。
(僕はこの絵を見るたびに、「どこで見てたんかい」と思ってしまいます)
さて、季長はどういう意識で戦っていたのでしょう。
先を急ごうとする季長に対して、
家来たちは「味方がくるまで待ったらいかがですか」と忠告するのですが、
季長はまったく耳を貸さず、
「先駆けこそが武家のならいだ。他の武士に絶対に遅れをとるな」と
どんどん前を行ってしまうという場面があります。
このとき季長の心にあったのは、ただ一つ〈恩賞〉だけです。
実はそのころ、竹崎一族は貧窮のどん底に苦しんでいました。
だから、何とかここで手柄を立てて、恩賞を頂戴したい。
そんな気持ちが「集団の規律」を無視したスタンド・プレイに
季長を走らせていたのです。
(ちなみに、「やあやあ我こそは」と名乗りを挙げて戦う一騎打ちのスタイルは、
〈誇り高き武士の礼儀〉のように思われていますが、
本当は、名乗ることで自分の戦功を周囲に証明するだけのことです)

日本人が日本人としてのナショナル・アイデンティティを持つのは、
明治時代になってからにすぎません。
(社会科学編「11 国家という病」参照)
御家人たちは誰一人として〈国のために〉戦ったわけではなかったのです。

ところで、国家とは一つの空間的実在ですから、
複数の国が同一の場所を共有することはできません。
2つの国の間には、〈国境〉を引く必要があります。
アメリカ人日本古代史研究者のブルース・バートンさんが著わした
『国境の誕生』(NHKブックス)は、
古代の朝廷が設置した大宰府という〈国境〉にスポットを当てた著作です。

九州に外交の出先機関として大宰府が置かれた7世紀後半、
朝廷は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大惨敗を喫していました。
この時が最初で最後、〈国家存亡の危機〉を本気で感じた時期でしょう。
朝廷は、軍団兵士制という徴兵に基づく国軍を作り上げるとともに、
朝鮮半島からの渡来人の来日も厳しく取り締まりました。
それが大宰府の始まりです。
〈日本〉の領域を明確に意識しつつ、外部からの他者は強力に排除する。
大宰府こそが日本初の〈国境〉であったと言えると思います。

しかし、それはあくまでも国家(朝廷)レベルでの視点です。
民間レベルではどうだったのでしょう。
9世紀末、朝廷は300年以上続いた遣唐使を廃止しましたが、
その一方で、僧侶や商人たちの私的な往来は活発となっていきました。
10世紀以降、大宰府は貿易センターの様相を呈します。
朝廷が〈国家〉の意識にとらわれ、かたくなに国交を拒否している間に、
人々は軽々と〈国境〉を超え、真の意味での国際交流が始まったのです。

(なお、「遣唐使の廃止により海外からの影響がなくなり、
国風文化が開花した」という一見もっともらしい見解は、
私的交流が活発化していたという事実を前に説得力を持ちません。
藤原氏ら貴族たちも、自分たちは外国人との接触を避けていたのに、
留学僧が持ち帰った仏像や陶磁器は「唐物」と珍重していたのですから。
現在では、長年にわたる中国文化の消化・吸収の上に立って、
日本的に洗練された文化が成立したと考えられています)

〈国〉とは何か、〈日本〉とは何か。
自明にも思えるだけに、その中身を問い直す必要がありそうです。

2010-7-12

ねじれ国会の作法

昨日行われた第22回参議院通常選挙において、
連立政権を組む民主党と国民新党は非改選議席を合わせても過半数を獲得できず、
衆参国会で再びねじれ現象が生じることになりました。
参議院で野党が過半数を上回る国会のねじれ現象は、
前回の2007年の第21回参議院選挙で、
自民党・公明党の連立政権(安倍内閣)が敗北したのに引き続いてです。
その時は衆議院の3分の2ルールを利用して法案を通すことができましたが、
それでも野党だった民主党の審議拒否戦術に苦しめられ、
安倍内閣の後を継いだ福田内閣が短命に終わる原因となりました。
今回は直前に社民党が連立を離脱したため衆議院で3分の2を確保しておらず、
菅内閣はさらに苦しい立場に置かれることが予想されます。

*参考 衆議院の3分の2ルール
日本国憲法は国会に関する規定において、法律案・予算の議決・条約の承認について衆議院の優越を定めている。特に法律案については、第59条2項に「衆議院で可決し、参議院で異なる議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる」とある。これが3分の2ルールで、2006年のいわゆる優勢選挙で衆議院では圧倒的優位を保っていた当時の連立与党はこれでしのいだ。

ですが、国会議員の役割は法律を作ることです。
それは与党であっても野党であっても変わりありません。
数の論理だけで与党が多数決を強行する、
逆に、党利党略のため野党が審議拒否を繰り返す。
こうした醜い争い末、政治が停滞して被害を受けるのは国民です。

ねじれ現象とは、見方を変えれば与党と野党が真剣に議論を戦わせ、
修正案を出しあって一歩ずつ前進していく絶好の環境だとも言えます。
それなのに、無用の対立を続けてきたのは与党・野党双方の責任です。
なぜ、議論を進めるルール作りをしてこなかったのか。
こう思うのは、戦前の議会ではそうした努力がなされ、
きわめて民主的な議会運営が行われていたからです。

1989年2月12日、大日本帝国憲法が発布された翌日のこと、
時の黒田清隆首相は地方長官を招いた晩餐会で、
「超然主義演説」と呼ばれる次のような演説を行いました。

「欽定の憲法は臣民の敢て一辞を容ることを得ざるは勿論、各般の行政は之に準拠して針路を定め、天皇陛下統治の大権に従属すべきは更に贅言を要せざるなり。然るに政治上の意見は人々其所説を異にし、其説の合同する者相投じて一の団結をなし、政党なる者の社会に存立するは情勢の免れざる所なりと雖、政府は常に一定の政策を取り、超然政党の外に立ち、至正至中の道に居らざる可らず。各員宜く意を此に留め、常に不偏不党の心を以て人民に臨み、其間に固執する所なく、以て広く衆思を集めて国家_隆の治を助けんことを勉むべきなり」(仮名づかいを改めた)

この演説は、帝国議会の開催を前にして、
政府は議会や政党の意向に左右されない立場を表明したものとして、
教科書などでは否定的に説明されています。
しかし、その文言を先入観なしに読んでみると、
言わんとするところは、意見を同じくする者たちは政党を結成するけれども、
政府は「常に一定の政策を取」るために、
「政党の外に立」って「至正至中の道に」いなければならない。
だから、「不偏不党の心」で人民に臨んで、「広く衆思を集めて」政治を行おうという、
きわめて真っ当なことです。

黒田や伊藤博文ら藩閥政府首脳の真意は、
政府が一つの政党の意見に偏ってはいけないという点にあったことは、
伊藤が「一政府の党派は甚だ不可なり」と述べていることからも分かります。
多くの政党、多くの人々の意見を集約して政治を行っていこうというのが、
「超然主義」のそもそもの意味合いだったのです。

*参考 藩閥政府
明治新政府を発足させた薩摩藩と長州藩の出身者が要職を独占した状態の政府のこと。初期の内閣は、伊藤(長州)→黒田(薩摩)→山県(長州)→松方(薩摩)→伊藤(長州)→松方(薩摩)と薩長で交互に担当していた。

翌1890年7月1日の第1回衆議院総選挙において、
板垣退助率いる立憲自由党など民党(自由民権派の流れをくむ政党)が勝利し、
吏党(藩閥政府を支持する政党)が過半数を取れなかったことから、
初期議会では藩閥政府と民党とが激しくぶつかり合いました。

しかし、両者は空しく対立していたわけではありません。
藩閥政府からすれば、予算を議会で通さなければなりません。
一方、民党にとっても、政策を実現するには政府への歩み寄りが必要です。
(だから、政府を飛び出して反対していれば良いといわんばかりの福島大臣の態度が、
僕には無責任にしか思えないのです)
かくして、しだいに意見調整のためのルールが作られていきます。
そして、日清戦争後には板垣が入閣を果たすなど藩閥政府と民党は接近していき、
政党内閣への下地が準備されていくのです。

前回、東大日本史の問題を考えながら、
戦前の大日本帝国憲法下でも民主政治は花開いていたと論じました。
それは、政治家が憲法を民主的に運用しようと努力していたからこそです。
そのボールは、ねじれ国会を迎える与野党の議員に投げ返されています。

2010-6-28

民主的な憲法、民主的でない世の中

前回の話の続きです。
憲法を運用するのは私たち国民自身である。
だから、民主的な日本国憲法があるというだけでは、
戦後の日本にデモクラシー(民主政治)が根づいたとは言えないのではないか?
最近の内閣の短命さと、首相が交代するだけで支持率が回復する無節操さから、
このような問題提起をしました。

今回も東京大学の日本史の入試問題を題材に考えてみたいと思います。
戦前の大正デモクラシー期に民本主義を説いた吉野作造の文章を引いて、
大日本帝国憲法と日本国憲法における三権分立のありかたの違いを
考察させる問題です。
設問文のみ掲載します。

「大日本帝国憲法と日本国憲法の間には共通点を相違点がある。たとえば、いずれも国民の人権を保障したが、大日本帝国憲法では法律の定める範囲内という制限を設けたのに対し、日本国憲法にはそのような限定はない。では、三権分立に関しては、どのような共通点と相違点を指摘できるだろうか。6行以内で説明しなさい」(2005年・東大日本史・第4問)

前回も指摘したとおり、
大日本帝国憲法においては、国家元首たる天皇が統治権を総攬し、
行政府の内閣も(内閣という言葉自体が憲法にはありませんでした)、
立法府の帝国議会も、司法府の裁判所も天皇に直属する機関だったため、
三権分立が明確でなかった。
教科書的に答えればそうなるでしょう。
実際に、受験界で流通する解答例はそのような論旨で書かれています。

しかし、僕には吉野作造の文章を引いているところが気にかかります。
戦前にデモクラシーの実現の可能性を主張していた憲法学者の文章なのです。

*参考 吉野作造の民本主義
 吉野作造は戦前を代表する憲法学者で東大教授。雑誌『中央公論』に論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、政治の根本は民衆にあるとして政党内閣の実現を説いた。吉野が〈民本主義〉という語を用いたのは、主権在民(国民主権)の〈民主主義〉と一線を画すためであり、主権在君(天皇主権)の大日本帝国憲法の枠内にとどまる限界はあったが、大正デモクラシーの理論的支柱となった。

例えば、第4条にある次の条文をどう解釈すれば良いでしょうか?
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覽シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」
前回は〈統治権ヲ総覽〉する天皇ということで引用しましたが、
今回注目してほしいのは、後半の「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」です。
ここには、天皇は憲法に従って統治権を行使しなければならないという、
国家権力の無条件の発動を抑制する、立憲主義の立場が示されています。

この条文は、憲法制定時に伊藤博文の意向で盛り込まれたものです。
伊藤は、将来的に議会政治や政党内閣に道を開きたいと考えていました。
吉野作造とともに大正デモクラシー期の理論的指導者だった美濃部達吉は、
この第4条の文言を根拠に天皇機関説を唱え、
大日本帝国憲法下でも政党内閣の実現は可能だと主張しました。
そして、短期間に終わりましたが、
〈憲政の常道〉と呼ばれる期間が出現します。
(5月17日付ブログ参照)
伊藤博文が大日本帝国憲法の中に播いたデモクラシーの種は、
戦前においても確かに花開いたのです。

*参考 美濃部達吉の天皇機関説
 美濃部達吉も戦前を代表する憲法学者で東大教授。天皇機関説とは、天皇を国家の最高機関とみなし、統治権の行使に憲法の制約を求める理論で、議会政治・政党内閣に道を開くものであった。1930年代に入り軍部・右翼が台頭すると、この説が国体に反するとの批判が起こり(天皇機関説事件)、1935年、時の岡田内閣が国体明徴声明を発して公式に否定されるにいたる。しかし、昭和天皇自身は美濃部の天皇機関説を支持していた。
 なお、美濃部は戦後、憲法改正(日本国憲法制定)のため発足された憲法問題調査委員会の顧問に選ばれているが、美濃部は憲法改正の必要はないと主張している。大日本帝国憲法の枠組みにおいてもデモクラシーは実現できると考えていたからである。

こうした、大日本帝国憲法に埋め込まれた立憲主義の精神に注目すれば、
三権分立は明文化されていなくても実質的にはそのような運用がされていた、
そのように捉えることも可能です。
例えば、天皇の協賛機関との位置づけだった帝国議会も、
予算の成立には議会の同意が必要でしたから、
一定の発言力を持っていました。
また、裁判官が自らの良心と法に従って裁いていたことは、
現在の日本国憲法下と変わりません。
憲法に従って統治権を行使する天皇の下で、
三権分立は実質的に成立していたとも言えるのです。

それでは、三権分立が明文化された日本国憲法ではどうなのでしょうか?
国会は〈国権の最高機関〉〈唯一の立法機関〉とされていますが、
官僚が作成した内閣委任法案や、
行政に大幅な裁量が認められた委任立法の増加など、
立法府としての役割が形骸化している面も否めません。
また、受験界が権力の抑制と均衡(これこそが三権分立の趣旨です)の例として
必ず挙げる、裁判所の違憲立法審査権と最高裁判所裁判官の国民審査は、
これこそ本当に形だけのものとなっています。

明文化されていなくても、実質的に運用される。
逆に、明文化されていても、形骸化する。
こうしたことが生ずるのは、
憲法を運用し、その精神を現実の社会に反映させるのは、
私たち国民自身であるからです。
受験界のありきたりな答案とは別世界で、
東大日本史はそういう恐ろしいことを問いかけているように思えてなりません。

*参考 受験界の一般的な答案
大日本帝国憲法では、三権は主権者として統治権を総覽するものとされ、帝国議会は立法権の協賛機関、内閣の各国務大臣は個別に天皇を輔弼するのみ、裁判も天皇の名の下で行われるなど、三権分立は形式的なものにすぎなかった。一方、日本国憲法では、国民主権を原理に、議院内閣制における国会の内閣首班指名や裁判所の違憲立法審査権など各機関の均衡が図られ、三権分立が明確化された。

2010-6-21

内閣が短命な理由

かつて、東京大学の日本史の入試問題で、
〈戦前の内閣が短命だったのはなぜか〉という問題が出題されたことがあります。
今から30年ほど前、1885年に内閣制度が発足して
100年ほど経とうとしていた、1981年のことです。
大日本帝国憲法と日本国憲法における政治制度の違いから考えさせる、
とても面白い問題でしたので、長いですが全文を引用します。
 
「1885(明治18)年12月、日本において近代的内閣制度が制定され、第1次伊藤内閣が発足して以来、1947(昭和22)5月、大日本帝国憲法に代って日本国憲法が施行され、第1次吉田内閣が退陣するまで、1代の内閣(同一の首相が連続して内閣を組織した場合は1代として数える。以下同じ)の平均存続期間は約1年5カ月であった。これは日本国憲法の時代における1代の内閣存続期間が約2年9カ月(1980年7月の大平内閣総辞職まで)であるのに較べると、いちじるしく短い。

 帝国憲法の時代(内閣制度制定以後憲法発布までを含む)の内閣がこのように短命であったのは、いかなる理由によるものと考えられるか。帝国憲法のもとでの政治制度の特色に即して、その理由を200字以内で述べよ」
 
まず、教科書的な説明をしておきましょう。
第1に、大日本帝国憲法において内閣は天皇に直属する一機関にすぎず、
他の機関からの攻撃や干渉を受けやすかったことが指摘されます。
大日本帝国憲法では、天皇が主権者で、強大な権力を握っていました。
第4条にはこうあります。
「天皇ハ国家ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」
〈統治権ヲ総攬(そうらん)〉、つまり、この国の行き先を一人で全部決めるのが、
天皇だったのです。
 
それゆえ、大日本帝国憲法下の諸機関は、
独立して天皇に直属するものとして位置づけられていました。
例えば、帝国議会は第37条で次のように規定されています。
「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」現在の日本国憲法のように、三権分立の原則の下で立法権は国会に属するのではなく、立法権は国家元首たる天皇が握る、
そして、帝国議会は天皇の〈協賛〉機関にすぎなかったのです。
 (同様に、司法権も天皇が握り、戦前の裁判は全て天皇の名の下に行われました)
また、陸海軍の指揮権(統帥権)も天皇の専権事項であり、
軍部への内閣・議会の干渉は許されませんでした(統帥権の独立)。
 
このように、大日本帝国憲法において諸機関は天皇に独立して直属し、
内閣もその一機関にすぎないという位置づけだったため、
帝国議会・軍部・枢密院など他の機関からの攻撃を受けやすかったのです。
例えば、内閣制度発足当初の薩長藩閥政府は
議会で多数を占める民党(民権派)の攻撃を受けましたし、
軍部は軍部大臣現役武官制を悪用して倒閣に動くこともありました。
また、枢密院が緊急勅令案を否決して
第1次若槻内閣を退陣に追い込んだ例も知られるところです。
戦前の内閣は、外部の機関に取り囲まれた状態だったのです。
 
*参考 軍部大臣現役武官制
陸軍大臣・海軍大臣の任用は現役の大将・中将に限るとした制度。内閣が要求に応じない場合、軍部は大臣を引き上げて倒閣に動いた。上原勇作陸相の単独辞任による第2次西園寺内閣の総辞職(1912)や、陸相候補の事態による宇垣内閣の不成立(1937・「流産内閣」と呼ばれた)などの事例がある。
 
*参考 枢密院
天皇の諮詢にこたえ重要国務を審議する機関。国務大臣と枢密顧問から構成される。1927年、金融恐慌が発生する中で、第1次若槻内閣が進める協調外交(中国不干渉政策)に不満を抱く枢密顧問らは、内閣から提出された台湾銀行救済の緊急勅令案(緊急勅令は帝国議会の閉会中に法律に代わって認められていた天皇の勅令で、枢密院で審議するとされた)を否決し退陣に追い込んだ。
 
第2に、内閣そのものの組織の弱さも指摘しなければなりません。
実は、大日本帝国憲法に〈内閣〉の語は一度も用いられてはおらず、
慣用的にそう呼ばれていたにすぎないのです。
 (つまり、制度的な規定は何もないということ)
国務大臣に関しては第33条に次のような規定があります。
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」
大日本帝国憲法下の国務大臣は、
外相は外交のこと、蔵相は財政のことといったように、
統治権を総攬する天皇を個別に〈輔弼(ほひつ・助ける)〉だけでした。
首相には各大臣の統率権限も規定されていません。
 (日本国憲法では首相が大臣の任命権者ですから、
意向に従わない大臣は福島大臣のように罷免できます)
戦前の内閣はばらばらの組織だったのです。
 
まとめると、内閣そのものの組織としての弱さと、
他の機関との関係から、戦前の内閣は憲法制度的にぜい弱で、
それゆえ短命に終わったということが、解答の要点となります。
 
ところが、です。
平成になってから22年間ですでに16人の首相が誕生しています。
内閣1代あたり約1年半ですから、戦前とほとんど変わりありません。
政経の教科書などを読むと、
「戦後の日本は、民主的な日本国憲法が制定され、民主的な世の中になった」
という趣旨の文章が、かなり不用意に書かれています。
ですが、憲法を民主的に運用するのは私たち国民自身です。
首相が交代しただけで支持率が回復するのを見るにつけ、
この国には本当の意味でのデモクラシー(民主政治)が根づいていないと感じざるを得ません。

2010-6-7

〈リセットボタン〉を押すのは誰か

僕が小学校5年生か6年生の頃のことだと思います。
ちょっと裕福な友達の家に行くと、
「ファミコン」というゲーム機がテレビに備え付けられていて、
家にいながらゲームセンターにあるゲームができることに、
いたく感動したことを覚えています。
(注記:調べたところ「ファミコン」の販売開始は1983年でした)

今のものと比べると、他愛のないソフトばかりでしたが、
しかし、「ファミコン」には恐るべき機能が備わっていました。
それは、〈リセットボタン〉です。
どうにも上手くいかない状況になったら、〈リセットボタン〉を押せば、
ゲーセンのように新たにコインを投入することもなく最初からやり直せる。
なんてすごい機能なんだ。
時に友達との喧嘩の原因になりつつも、
子ども時代から多少ひねくれた性格の持ち主であった僕の心には、
「ファミコン」と言えば〈リセットボタン〉と植え付けられした。

この〈リセットボタン〉が、きわめて日本人の特性に根ざしたもので、
任天堂という日本の企業だからこそ生み出されたものである、
ということを理解したのは、
大学を出て、予備校講師になって、
この国の歴史や社会についてちゃんと勉強するようになってからのことです。
(注記:皆さんは学生のうちに勉強して下さい。本当に反省しきりです)

日本史を勉強している人なら、
〈代始めの徳政〉という言葉を聞いたことがあると思います。
中世(室町時代)、民衆は、将軍や天皇が交代したときに、
代が改まってところでこれまでのことを帳消しにしてくれと、
債務の破棄(徳政)を求めて一揆を起こしました。
最も有名なのが、1441(嘉吉元)年の嘉吉の徳政一揆です。
嘉吉の乱によって6代将軍足利義教が暗殺され、
新たに7代将軍として足利義勝が即位したことを受けて、
京都の民衆が〈代始めの徳政〉を求めて蜂起したものです。
(この時、室町幕府は要求を受け入れて徳政令を発布しています)
また、さかのぼって1428(正長元)年の正長の土一揆においても、
将軍の交代(5代義量から6代義教へ)・天皇の交代(称光から後花園へ)
・年号の改元(応永から正長へ)という3つのチェンジが重なり、
〈代始めの徳政〉を始める機運が高まっていたと考えられます。

将軍や天皇が変わったら、借金もチャラになる。
このきわめて奇異な観念を、教科書はこう説明しています。

「中世には、支配者の交代によって、所有関係や貸借関係など、社会のさまざまな関係が改められるという観念が存在した。将軍の交代の時に「天下一同の徳政」を要求して土一揆が放棄した背景には、この社会観念が大きく作用していた」(山川出版社『詳説日本史B』125ページ脚注)

つまり、将軍や天皇の交代が、
すべてをゼロからやり直せるという〈リセットボタン〉の役割を果たしていたということです。
こうした観念は、中世にかぎらず、
古代の朝廷においても、災害や疫病が発生するたびに、
巻き直しの想いも込めて改元がたびたび行われました。
また、近世(江戸時代)にも、
地震は日常的な社会関係を解体するものと受け止められ、
鯰絵が地震を起こした〈世直し鯰〉として縁起物とされたという記録が、
幕末の1855(安政2)年に発生した安政大地震に際して残されていました。

このような〈リセットボタン〉の発想は、
ツミ(罪)を内面的な良心にかかわるものとは考えず、
外部からもたらされたケガレ(穢れ)と捉えて、
ミソギ(禊)やハライ(祓い)をすればきれいさっぱり水に流せるという、
日本人の特性(罪の意識の欠如)と関連するものと考えられます。
現代においても、自己破産する人が多いのも、
こうした意識と関係するのかもしれません。
(注記:自己破産の件数は、2006年度で166,527件)

〈リセットボタン〉は、本当に最初からやり直したいとき、
それまでのしがらみを断ち切る良い機会であるとも言えます。
しかし、それを連発すれば効果は薄れ、信用を失うだけです。
それは、自民党政権の末期に支持率の回復ねらいで首相の交代を繰り返し、
結果的に大敗したことからも明らかでしょう。

そして今回、民主党までもが〈リセットボタン〉を押しました。
ですが、本当に〈リセットボタン〉を押したいのは、国民のはずです。
こういう時、政権の座にある者は決まって、
「政治的空白を作ってはならない」と言います。
しかし、国民の審判を受けていない政権こそ、
「政治的空白」以外の何者でもありません。

菅内閣の最初の仕事は、衆議院の解散であるべきです。

2010-5-31

アダム・スミスの〈利己心〉と〈抑止力〉

今回は、アダム・スミスだったら沖縄問題をどう見るかという話をします。

17~18世紀のイギリスでは、
産業資本家(ブルジョアジー)や自営農の経済的成長を背景に
絶対王政などの封建的な社会制度の打破を求める声が強まり、
ピューリタン革命(1642~49)・名誉革命(1688)という2つの市民革命をへて、
〈自由で平等な個人〉からなる市民社会が成立しました。
こうした中で、人間が本性として持つ〈利己心〉を重視したのがアダム・スミスです。

スミスの言う〈利己心〉とは、わがままや身勝手のことではありません。
自分の幸福を願い追い求める心、と考えてくれれば良いでしょう。
人間は他人の幸せ以上に自分の幸せについて真剣に考える。
そのことを、スミスは次のような比喩で巧みに表現しています。

「いま中国の大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。そして、かかる地球の一角になんら関係のないヨーロッパの人道の士が、この恐るべき災害の報に接してどのように感ずるかを考察してみよう。
ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難にたいして強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。
さて、すべてこうした哲学がひと段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、今宵は寝もやられぬであろう」
(『道徳感情論』)

都会では自殺する若者が増えているとニュースでは言うが、
僕にとって問題は君に逢いに行くのに傘がないことだ。
井上陽水がこう歌った感情が〈利己心〉です。
しかし、スミスはこれを決して否定せず、
〈利己心〉こそが社会全体の発展の原動力であると考えました。
(その時に働くのが、スミスが「神の見えざる手」と呼んだ市場原理ですが、
その点に関しては社会科学編「5.資本主義の行方」をお読み下さい)

さて、アダム・スミスが代表作『諸国民の富(国富論)』を刊行したのが1776年、
アメリカ独立革命が出される数カ月前のことでした。
スミスは、当時はスミスの母国イギリスの植民地であった、
アメリカにおける独立の動きについて〈利己心〉の観点からこう論じています。

「アメリカにおけるヨーロッパの植民地は,現在まで,母国の防衛のために兵力を提供したことはただの一度もない。かれらの兵力は,自衛にさえ不十分であった。そして,母国がさまざまな戦争をする場合にいつも,その植民地の防衛が,一般に,母国の兵力ははなはだしい分散をひきおこしているのである。それゆえ,この点では,ヨーロッパ諸国の植民地は,いずれも例外なく,それぞれの母国の国力を強めるよりもむしろ弱める原因となっている」
(『諸国民の富(国富論)』)

植民地(アメリカ)の人々が母国(イギリス)のために命がけで戦うことはない。
〈利己心〉が働かないからである。
同様に、母国の人も植民地の防衛のため必死に戦うことはないから、
植民地は母国の国力を弱めるだけである。
スミスはこう考えて、アメリカの独立に賛成しました。

私たちが命をかけて戦うのは、
自分のため、愛する家族のため、そして祖国のためです。
(ナショナリズムに関する問題は、ここでは深追いしません)
どんな国でも兵士が子どもたちの憧れとなり人々の尊敬を集めるのは、
自分たちを守ってくれているという思いゆえでしょう。
そして、そういう思いを受けてこそ、兵士たちは任務を全うできる。
この国を守るのは、この国を守りたいという〈利己心〉に根ざした心なのです。

アダム・スミスのこうした議論を踏まえて考えたとき、
アメリカに守ってもらう形での〈抑止力〉とは何なのかを、
その実効性も含めて疑わざるをえません。
また、どの地方自治体もアメリカ軍の受け入れに難色を示すのも、
当然のことのように思います。
(アメリカ人の兵士がどういう思いで日本を守るのかも聞きたいところです)
加えて、国民からなんら敬意を払われないのは、
自衛隊にとっても不幸なことでしょう。

僕は〈抑止力〉に対しては否定的で、
今後は人間の安全保障に力を注ぐべきだと考えていますが、
(社会科学編「12.冷戦後の世界」参照)
もし〈抑止力〉が必要だと言うのであれば、
なぜそれをアメリカに頼るのかということから考えなければなりません。

追記
社民党の党首である福島大臣が、
日米共同声明に関する閣議署名を拒否して罷免されました。
ここまでは政治信条を全うしたということで理解できます。
しかし、罷免後に会見に臨んだ福島(前)大臣の口からは、
鳩山政権に対する恨み節は聞こえてきても、
沖縄の人たちに対する謝罪の言葉は何一つありませんでした。
普天間問題を解決できた(る)のは、政権内にいた(る)者だけです。
まず、解決できなかったことをお詫びする、
それこそが連立与党の党首としての責任の取り方でしょう。
結局、福島大臣は政権を担うという意識が最後まで欠けていた。
そう感じざるを得ない記者会見でした。

2010-5-24

小説・ナカトミノカマタリ

−−わたくしぃ、ナカトミノカマタリと申す者ですが〜
家には時おり、不可解な電話がかかってくるものである。しかし、これは飛び抜けていた。僕が日本史講師だとはいっても、「中臣鎌足」という知り合いはいない。
−−“トミー”って呼んで下さい。みんなもそう呼んでますから。
どういう略し方をしているんだか。きっと、中大兄皇子も、中臣鎌足のことを“トミー”とは呼んでいなかっただろう。

金曜の夜、僕は次の日の授業の予習を終えると、若手のお笑い10組が競演し、観客の投票で上位5組だけがオン・エアーされる番組を見ることにしていた。電話がかかってきたのは、ちょうどお目当ての、黒頭巾がカエルと牛の人形を操ってコントをさせる番の時だ。12時をもう過ぎている。こんな時間にかけてくるなんて、相手のことなど何も考えていない失礼なセールス以外に考えられない。これまでの苦々しい経験の数々がよぎって、少し胸がドキドキした。
−−で、突然ですけど、今流行りの、ゴマフアザラシ語を始めてみたいと思いませんか?
ほらやっぱりだ。セアカゴケグモ語、ニホンカモシカ語、今月でもう3件目になる。
−−いや、別に今のところ考えていませんし、それに、人間の言葉で精一杯ですから
−−何を器の小さいことを言っているんですか〜。グローバル・スタンダードの時代ですよ。異文化コミュニケーションの時代ですよ。動物一匹と話もできないで、これからどうやって生きていくんですか・・・
僕は、予備校講師にはあるまじく、人と話すのが苦手だった。特にこういう電話がダメである。どこでどう断って、電話を切れば良いのか、タイミングがつかめず途方に暮れてしまうのだ。「人間の言葉で精一杯」とは、偽らざる気持ちであった。グローバル・スタンダードはおろか、この国の人間の言葉だって、ちゃんとは理解できていない。

−−いえいえ、ゴマフアザラシ語って、とっても簡単なんです。動詞の活用も3つしかないんですよ。アウッ、アウッ、アウッ。って、これはアシカでしたっけ? でも、こういう所から勇気を出して飛び込んでいく。それが混迷日本を変えていくためにも、必要なことだと思いませんか? 新しい自分を発見してみましょうよ。自己啓発系のセールスは、たいていこういうことを言う。「本当の自分」なんて、どこにあるというのだ。けれども、中臣鎌足に言われていると思うと、少しだけ説得力があるような気がした。

ようやく電話が解放されたときには、カエルと牛のコントは終わってしまっていた。あの黒頭巾は、どうやって会話しているのだろう。そして、どうやって人間の言葉を教えたのだろう。2匹の毒舌はなかなかのものだ。僕は黒頭巾の苦労と、歴史上の中臣鎌足と中大兄皇子の会話を思った。

次は、名古屋出身の大衆演芸の匂いを残す二人組だ。1970年代にタイム・スリップしたようなボケに対し、それに輪をかけて時代錯誤な風体のツッコミが、頭の上で右手をひらひらさせて、「あたしは認めないよ」とやっていた。目も当てられない失笑が浴びせられたが、繰り返されると思わず吹き出してしまう。案外、来年あたり流行語大賞を取るかもしれない。
僕は、この世界のあらゆるものに、「あたしは認めないよ」とツッコミを入れられたら、どんなに楽だろうにと思った。ナカトミノカマタリ? あたしは認めないよ。ゴマフアザラシ語? あたしは認めないよ。

2010-5-17

あの頃に似ている3

前回からの続きです。
加藤高明内閣以降も、元老・西園寺公望の判断によって、
約8年の間、「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の時代が続きました。

加藤高明内閣(1924.6〜1926.1)〈憲政会〉
第1次若槻礼次郎内閣(1926.1〜1927.4)〈憲政会〉
田中義一内閣(1927.4〜1929.7)〈立憲政友会〉
浜口雄幸内閣(1929.7〜1931.4)〈立憲民政党〉
第2次若槻礼次郎内閣(1931.4〜1931.12)〈立憲民政党〉
犬養毅内閣(1931.12〜1932.5)〈立憲政友会〉

立憲民政党は、憲政会と政友本党が合併して発足した政党です。
 (第2次護憲運動の際は敵対していたはずなのですが)
一方、この間に立憲政友会も革新倶楽部を吸収しています。
つまり、この時期は立憲民政党(憲政会)と立憲政友会の二大政党制が成立し、
今の日本の政治が目指しているような、政権交代も行われていたのです。

しかし、前回のブログでも書いたとおり、
政党は国民の側を向いてはいませんでした。
当初、政党の向けられていた期待は、失望と怒りに代わっていきました。

政党が国民の信頼を失った第1の要因は、
慢性的不況に対して抜本的な解決策を示せなかったことです。
1920年代の日本経済は、戦後恐慌(1920)のダメージを回復できぬまま、
その後も、震災恐慌(1923)・金融恐慌(1927)と危機が立て続けに訪れ、
出口の見えない不況が続いていました。
(大戦景気で不健全に膨張した「成金」企業が相次いで倒産し、
銀行は融資が焦げつき不良債権を抱えて経営が悪化、
国も借金に苦しむという状況は、
1990年代の「失われた10年」とそっくりです。
社会科学編「2.バブル景気と「失われた10年」」参照)
1930年には、前年に発生した世界恐慌の影響を受けて昭和恐慌に突入、
都市には失業者があふれ返り、農村も米価や繭価の下落で困窮します。
こうした中で、国民の政党離れは進んだのでした。

続いて、政党が国民の信頼を失った第2の要因は、
立憲民政党(憲政会)も立憲政友会も党利党略に終始したことです。

政党内閣が続いた時期には数多くの汚職事件が発覚しましたが、
その中で最も注目を集めたのが、五私鉄疑獄事件でしょう。
これは、立憲政友会・田中義一内閣で鉄道大臣を務めた小川平吉が、
5つの鉄道会社から便宜供与の見返りに金銭を受け取っていたことが発覚し、
逮捕・起訴されて有罪となったという事件です。
その裏では、政権交代した立憲民政党・浜口雄幸内閣で
鉄道大臣となった江木翼が動いていたとも言われます。

国民は政財界の癒着に怒りを覚えましたが、
それ以上に、政党が自浄能力を発揮しようともせず、
お互いにお互いの足を引っ張りあう姿に、あきれ返りました。

そして、手段を選ばぬ相手に対する攻撃は、
自らの首を絞めることになったのです。
1930年、軍部は立憲民政党・浜口雄幸内閣に対して、
ロンドン海軍軍縮条約の調印は統帥権の干犯だとする批判を展開しましたが、
立憲政友会は、憲法上問題のないことを分かっていたにもかかわらず、
これに賛同し、倒閣に動きました。
これは、自らのよって立つ立憲政治の大前提を自ら否定するものでした。

*参考 統帥権干犯問題
1930年、浜口内閣が補助艦の保有量の制限を取り決めたロンドン海軍軍縮条約に調印すると、これを不満とする軍部(海軍軍令部)は、統帥権の独立(陸海軍の指揮権は天皇に属し、内閣の干渉を受けない)を犯すものと批判した。しかし、条約の調印は兵力量の決定にあたるものであり、憲法上でも内閣の補弼(助言)が必要とされていた(予算に関わるので当然である)。立憲政友会の動きは憲法そのものを踏みにじるものであったと言える。

1930年11月、浜口首相は東京駅で右翼の青年に撃たれ、重傷を負います。
(一命は取り留めたものの、傷が癒えず翌1932年に内閣総辞職、後に死亡)
ここから、血気盛んな青年将校や右翼による
テロとクーデターの時代に突入しました。

三月事件(1931):陸軍桜会・橋本欣五郎によるクーデター計画。
十月事件(1931):再度のクーデター計画。前月(9月)には満州事変が勃発しており、これに呼応
           して軍部政権の樹立を目指したもの。
血盟団事件(1932):井上日昭を中心とする右翼結社・血盟団によるテロ。井上準之助(前蔵相)・
           団琢磨(三井理事長)らが暗殺。

そして、1932年5月15日、
海軍青年将校や右翼結社・愛郷塾のメンバーが首相官邸などを遅い、
犬養毅首相を暗殺しました。
五・一五事件です。

この事態に、元老・西園寺公望は政党内閣の継続は困難であると判断、
海軍長老で穏健派の斉藤実(まこと)を首相に推挙して、
軍部も政党も協力した挙国一致内閣の創設を指示、
ここに「憲政の常道」は終わりを迎えました。
西園寺の意図は、軍部の発言力をぎりぎりのところで押さえ、
頃合いを見計らって政党内閣を戻そうというところにあったようです。
(実際、政党からも鳩山一郎文相・高橋是清蔵相などが入閣しています)
しかし、政党の影響力は次第に低下し、復活することはありませんでした。

さて、このように政党内閣が崩壊する過程において、
国民がテロやクーデターを支持したという悲しい事実から、
目を背けることはできません。
五・一五事件の首謀者に対する裁判では、減刑嘆願運動も起っています。
政党があまりに未熟だったのは事実です。
しかし、政党内閣は始まったばかりであり、
これから日本の社会に根づかせていくべきものでした。

民主政治は時に選択を誤ることがあります。
しかし、誤ってもやり直すことができるのが、民主政治の特色です。
不満を言う前に、あきらめる前に、
次の選択を誤らないように、一人一人が真剣に考えること、
それこそが今、国民に求められています。

2010-5-10

あの頃に似ている2

前回からの続きで、
第2次護憲運動の実相について見ていきたいと思います。

1921年11月に原敬首相が暗殺された後、
高橋是清が後継を務めましたが、立憲政友会の内部対立から長続きせず、
海軍大将の加藤友三郎、次いで同じく海軍大将の山本権兵衛が、
政党の協力を得ながら内閣を組閣しました。
(歴史的に、「中間内閣」と呼ばれています)

転機となったのは、1923年9月1日、首都圏を襲った関東大震災です。
その年末に混乱が続く中で発生した、
虎ノ門事件(後に昭和天皇となる摂政宮の狙撃未遂事件)の責任を取って、
山本権兵衛首相が辞任すると、後任に清浦奎吾が推挙されました。
清浦は元老・山県有朋の側近で、
外相・陸相・海相以外の大臣が貴族院議員で固められたことから、
時ならぬ「超然主義」内閣の出現に批判が高まりました。

*参考 貴族院
戦前の大日本帝国憲法下では、帝国議会は衆議院と貴族院の二院制がとられた。貴族院は上院にあたり、皇族・華族・勅撰議員・多額納税議員で構成された。戦後、日本国憲法において廃止され、参議院がこれに代わる。衆議院を通過した法案をしばしば否決し、「皇室の藩屏」とも呼ばれた。

*参考 超然主義
内閣は議会や政党の意向に左右されないとする立場のこと。1889年2月12日、憲法発布を記念した翌日の式典において、時の黒田清隆首相が表明して、板垣退助の自由党ら民権派との対決姿勢を明確にした。しかし、衆議院を通過しなければ予算が成立しないことから、内閣と政党はしだいに接近することになる。清浦内閣は多分に時代錯誤的なものであり、「特権内閣」と批判された。

憲政会の加藤高明・立憲政友会の高橋是清・革新倶楽部の犬養毅は、
一致団結して清浦内閣の打倒と政党内閣の実現を目指すことで合意します。
護憲三派の結成です。
しかし、政友会内部には床次竹二郎ら清浦内閣を支持する者も多数あり、
彼らが政友本党を結成したため、立憲政友会は分裂してしまいました。
(議員の数はほぼ半々で、まさに分裂です)
床次らの動きは、政権にすり寄ろうとする姿勢がにじみでていました。
また、護憲三派の内部においても、
憲政会と立憲政友会とでは政策面で大きな隔たりがあり、
主導権争いに腐心するという有り様でした。
どの勢力も次の総選挙で議席を増やすことにしか関心がなかったのです。

そうした権力闘争の側面を、国民は敏感に察したのでしょう。
護憲三派による第2次護憲運動は、
大正時代の初めに展開された第1次護憲運動とは違って、
国民的な大きな支持を得ることはありませんでした。

*参考 第1次護憲運動
1912年12月、辞任した西園寺公望に代わって、内大臣(天皇の補佐役)の任にあった桂太郎が首相となり、出身の長州閥・陸軍閥を中心に組閣を行うと、1885年の内閣制度発足以来の原則である宮中・府中(行政府)の別を犯すとの批判が起こり、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅を中心に、「憲政擁護・閥族打破」をスローガンとする第1次護憲運動が展開された。桂は天皇の詔勅や議会の停止で事態を乗り切ろうとするが、民衆が議事堂を取り囲むなど大運動となり、桂内閣はわずか53日で退陣した。これを大正政変と言う。政党が国民と手を結んでいた点で、第2次護憲運動とは異なる。

1924年5月に行われた総選挙は、
「普選断行・貴族院改革・行財政整理」を掲げる護憲三派が勝利しました。
(ただし、議席を伸ばしたのは憲政会のみで、
立憲政友会は分裂騒動が敬遠されて議席を減らし、
革新倶楽部も少数政党の悲哀で埋没し、伸び悩んでいます)
この結果を受け、元老・西園寺公望は
「憲政の常道」に従って憲政会総裁・加藤高明を首相に推挙、
護憲三派内閣が発足したのです。
(元老の存在や「憲政の常道」が〈慣習〉にすぎなかったことは前回のブログを参照)

加藤高明内閣は公約どおり、
1925年に普通選挙法を成立させ、選挙権の納税資格を撤廃します。
しかし同時に、国民の自由を制限する弾圧法令として悪名の高い、
治安維持法も制定しました。
日本共産党の活動が活発化する中で、
内閣は普通選挙の実施による無産政党の議会進出を恐れ、
社会主義・共産主義に対する取り締まりを強化したのでした。

*日本共産党と無産政党
日本共産党は、1922年にコミンテルン(モスクワ国際共産党)の指導下に結成。しかし、戦前は非合法であった(合法的に認められるのは戦後のこと)。そこで、労働運動や農民運動を母体に、普通選挙における議席獲得を目指して多くの無産政党が結成され、日本共産党は半ば公然と支援していた。

普通選挙法と治安維持法は、
よく〈アメとムチ〉の関係として捉えられます。
しかし、護憲三派が選挙権は国民の権利と本気で考えて、
納税資格を撤廃したのかについては再考の余地があるでしょう。
原敬首相が、普通選挙の実施に消極的だったことを思い出して下さい。
(前回のブログ参照)
法案の審議で若槻礼次郎内相は、「革命の安全弁」と答弁しています。
要は不満のガス抜きのように考えられていたのです。
その姿勢は、立憲政友会総裁・高橋是清の次の言葉に現れています。
「民度から云えば、尚ほ早いけれども、今どうしても政治的に解決して、社会問題が起らぬやうにしなければならぬ」
(注:高橋是清は原敬の後継総裁です)

最初から国民と真正面に向き合っていない政党内閣でしたから、
国民の支持を失うのもあっと言う間でした。
次回は五・一五事件で「憲政の常道」が終焉するまでを見たいと思います。

2010-5-6

あの頃に似ている

今でも時おり政治家(主に野党の)が用いますが、
「憲政の常道」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
大日本帝国憲法下において,議会(衆議院)で多数の議席を占める政党が
内閣を組閣すべきであるとする慣例のことです。
(この後には、「第一党が総辞職した後は第二党に政権交代する」と続きます。
だから、政権が行き詰まると野党議員がさかんに言うわけです)

主権在君の大日本帝国憲法では政党内閣は保障されておらず、
あくまでも〈慣例〉にすぎませんでした。
ですが、大正時代から昭和初期にかけて、
国民の期待を背景に政党内閣が続いたことがありました。
しかし、政党はその期待に応えることができず、
自ら首を絞める結果となってしまったのです。

参考
現行の日本国憲法では、第67条に「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」,第68に「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は国会議員の中から選ばれなければならない」とあり、議院内閣制が明確に規定されている。国会で内閣首班(首相)を指名し、国務大臣の過半数を国会議員から任命するのであるから、政党内閣は〈慣例〉ではなく〈制度〉的に保証されているということになる。

日本初の本格的政党内閣とされるのが、原敬内閣です。
1918年9月、陸軍大将の寺内正毅内閣が米騒動の責任をとって総辞職すると、
大正デモクラシーの風潮の中で沸き上がる民衆のパワーを痛感した、
山県有朋ら元老勢力は、立憲政友会総裁の原敬を後継首班に指名しました。
衆議院に議席を持つ初めての首相であり、
外相・陸相・海相以外は立憲政友会の党員で占められたことが、
日本初の本格的政党内閣と呼ばれるゆえんです。
原敬は爵位の受け取りを固辞し続けたことから「平民宰相」と呼ばれ、
国民の人気もあり、元老らは彼に民衆運動の鎮静化を期待したのでした。

参考 元老
戦前に天皇の非公式の(憲法に規定されない)最高顧問として、首班の推挙などを行った。伊藤博文・山県有朋など、明治維新の功労者を中心に9人が元老となっている。「憲政の常道」とは、つまりは元老が第1党のリーダーを首班として天皇に推挙する〈慣例〉であった。
元老には内閣を影で操るキングメーカーのような負のイメージがつきまとうが、天皇の持つ強力な君主権が暴発するのを防ぐ役割を果たしていたとも考えられる。その証拠に、最後の元老である西園寺公望が亡くなったのが1940年、翌1941年に抑えなくなった陸軍大将の東条英機内閣はアメリカに宣戦布告してアジア太平洋戦争へと突入していく。

参考 作られた「平民宰相」のイメージ
原敬は政治家の駆け出しのころ、逆に自分から爵位を求めて、伊藤博文や井上馨に取り次ぎを請うている。爵位の授与を固辞するようになったのは、党の幹部としての地位が確立してからのことであった。「平民宰相」とは、原敬が国民の人気を得るために自身で作り出したイメージでもあったのである。

国民の期待を背負って首相となった原敬ですが、
100%その期待に添うことはありませんでした。
普通選挙(納税資格の撤廃)の要求に対しては、
時期尚早であると反対し、納税資格の引き下げにとどめています。
(死後に公表された『原敬日記』には、
「階級制度打破と云ふが如き、現在の社会組織に向て打撃を試みんとする趣旨より、納税資格を撤廃すと云ふが如きは、実に危険極る次第にて」
と記されています。民衆運動の高揚を警戒していたのです)

一方で、党勢拡大のため地方鉄道の建設を積極的に推進し、
その露骨な利益誘導の手法は「我田引鉄」と揶揄されました。
例えば、原敬の地元・岩手県には、
盛岡駅-宮古駅間を結ぶ山田線というローカル線があります。
1日4往復しか列車がないという、全国屈指の閑散区間です。
(こうした赤字ローカル線が国鉄の経営を圧迫し、
現在のJR各社に分割民営化されたのは1987年のことです)
この時、議会での審議において、
「猿でも乗せるつもりか」という野党憲政会の議員の質問に対して、
首相は「鉄道規則によれば猿は乗せないことになっております」と、
平然と答弁したというエピソードが残っています。

このような国民に背を向けた政策に、
利権絡みの汚職事件なども重なって、
原敬内閣は支持を失っていきます。
折から、第1次世界大戦の終結とともに日本経済は失速し、
戦後恐慌(1920)が発生して不況へと突入していました。
こうした中で、1921年11月4日、
原敬首相は東京駅で暴漢に襲われ、65歳の生涯の幕を閉じるのです。
(刺殺された現在の東京駅丸の内南口の地点には、
タイルにプレートがはめ込まれています)

今回、戦前に政党内閣が成立していた時代を取り上げたのは、
現在とあまりにも状況が似ているからです。
政党が国民の期待に応えるには、あまりにも未熟だった。
そう言ってしまえば、そうなのかもしれません。
しかし、ことさらに問題点をあげつらい、不満をぶちまける前に、
長い目で見守り、政権を担える政党へと育てていくことも、
有権者の責務でしょう。
期待を裏切られた途端にバッシングの嵐というのでは、
無責任そのものです。

戦前、「憲政の常道」が終焉したその先には、
軍部ファシズム政権の成立と戦争への道がありました。
次回は、昭和初期の第2次護憲運動から五・一五事件への流れを
追っていきたいと思います。

絶賛発売中

時事テーマとキーワード
--小論文--
時事テーマ

キーワード
《社会科学編》
《看護医療編》

プロフィール

【相澤 理】
(AIZAWA OSAMU)
職業:予備校講師

カレンダー

2010 / 9



1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

Blog Owner

相澤 理